大判例

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東京高等裁判所 昭和37年(う)2670号 判決 1963年11月21日

控訴人 原審検察官

被告人 石井恭二 外一名

弁護人 大野正男 外三名

検察官 大平要

主文

原判決を破棄する。

被告人石井恭二を罰金一〇万円に、被告人渋沢龍雄を罰金七万円に処する。

被告人両名において右各罰金を完納することができないきは、金千円を一日に換算した期間当該被告人を労役場に留置する。

押収にかかる単行本「悪徳の栄え(続)-ジユリエツトの遍歴」二九一冊(昭和三五年東地領第九七〇〇号の二および東京高裁昭和三七年押第一〇四〇号の二ないし六五)を被告人両名から没収する。

原審の訴訟費用は全部被告人両名の連帯負担とする。

理由

本件控訴の趣意およびこれに対する答弁は、東京高等検察庁検事渡辺薫が差し出した東京地方検察庁検事山本清二郎名義の控訴趣意書および弁護人大野正男、同中村稔、同柳沼八郎、同新井章が連名で差し出した答弁書に記載してあるとおりであるから、いずれもこれを引用し、これに対して当裁判所は、次のように判断する。いわゆるチヤタレー事件に関する最高裁判所の判決(昭和二八年(あ)第一七一三号、同三二年三月一三日大法廷判決)は、刑法第一七五条の「猥褻の文書」の意義について、従来の大審院の判例である「性欲を刺戟興奮し又は之を満足せしむべき文書図画その他一切の物品を指称し、従つて猥褻物たるには人をして羞恥嫌悪の感念を生ぜしむるものたることを要する」とする見解(例えば大審院大正七年(れ)第一四六五号、同年六月一〇日判決)ならびに最高裁判所の「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」とする見解(最高裁判所昭和二六年(れ)第一七二号、同二六年五月一〇日第一小法廷判決)を是認した上、要するにこれ等判例によれば、猥褻文書たるためには、羞恥心を害することと性欲の興奮刺戟を来すことと善良な道義観念に反することが要求されるとしているのである。

原判決の骨子は、このチヤタレー事件判決において最高裁判所が支持確認した猥褻に関する従来の裁判所伝統の解釈を是認し、猥褻文書たるためには、その内容が(一)徒らに性欲を興奮または刺戟せしめ(二)普通人の正常な性的羞恥心を害し(三)善良な性的道義観念に反することが要求されるとし、更にこの三箇の要素は、いずれも猥褻文書たるために欠くことのできない要件であると解した上、本訳書(フランス一八世紀の作家マルキ・ド・サドの著作「ジユリエツト物語あるいは悪徳の栄え」を被告人渋沢によつて抄訳されたものの後半であつて、前半部分たる「悪徳の栄え」の下巻として昭和三四年一二月一六日頃被告人石井によつて「悪徳の栄え(続)-ジユリエツトの遍歴-」という表題で出版された単行本)の中検察官の指摘する一四箇所の性的場面の描写は、いずれも同性または異性相互の間に行われる淫蕩にして放埓な場面の描写であつて、性的行為の姿態、方法、行為者の会話、その受ける感覚の記述を交えて相当露骨かつ具体的に描かれており、本訳書は社会通念に照らして判断すれば、明らかに普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書と認められるが、一面本訳書は全体が異常に大胆、率直な性的場面の描写で貫かれているにもかかわらず、一般的にその内容は空想的、非現実的であり、その表現は無味乾燥であつて読者の情緒や官能に訴える要素が乏しいばかりでなく、検察官指摘の性的場面のうち、一部には春本類似の描写によつて性的刺戟を与える箇所がないでもないが、これはいずれも殺人、鞭打、火あぶり、集団殺戮など、極度に残忍醜悪な場面の描写が性的場面と不可分的に一体をなすか、あるいは性的描写の前後に接続し、このため一般読者に極めて不快な刺戟を与え、性的刺戟の如きは、この不快感の前には全く消失させられるか、殆んど萎縮されられる性質のものと認められ、一般社会の普通人は本訳書の持つ残虐醜悪な雰囲気に圧倒され過度の性的刺戟を受けることはないと認められ、この点において本訳書は猥褻文書たる要素を欠くものであり、結局本訳書は、猥褻文書たるために要求される三要件の中普通人の正常な羞恥心を害することと善良な性的道義観念に反することとの二要件は充足するが、徒らに性欲を興奮または刺戟せしめることという要件を欠くから、刑法第一七五条にいう「猥褻の文書」に該らないとし、この前提の下に被告人等を無罪としたのである。

これに対する検察官の論旨の要点は、文書が性行為非公然性の原則に反する内容を有するものと判断される以上、その文書は当然人の性欲を興奮刺戟せしめることにより正常な性的羞恥心を害し、同時に性的道義観念に反するものというべきであるにかかわらず、原判決が、本訳書が性行為非公然性の原則に反することを認めながら最高裁判所が猥褻文書たるために要求されるとした「羞恥心を害すること」「性欲の興奮、刺戟を来すこと」「善良な性的道義観念に反すること」をそれぞれ独立並列的関係にあるものと解し、その前提の下に、本訳書は過度に性欲を刺戟興奮させるものではないから猥褻性が否定されるとしたのは、右最高裁判所の見解に対する見方を誤まり、ひいて刑法第一七五条の解釈適用を誤つたというにある。

当裁判所は、刑法第一七五条にいう「猥褻の文書」の意義については、最高裁判所がいわゆるチヤタレー事件の判決において支持確認し、原判決もこれに従つたわが国裁判所のとつて来た伝統的解釈は、今日においてもなお変更の要を見ず、正当として維持すべきものと考える。

わが国裁判所の伝統的解釈は、原判決も述べているように、猥褻文書たるためには、その内容が(一)徒らに(過度に)性欲を興奮または刺戟せしめ、(二)普通人の正常な性的羞恥心を害し、(三)善良な性的道義観念に反することが要求されているとすることができる。そして右(一)ないし(三)の要素の存在がそれぞれ猥褻文書たるために欠くことのできない要件であるかどうかという点については、従来特に問題とされたこともなく、判例も特にこの点に言及したことはないのであるが、この点は、原判決のいうように、右(一)ないし(三)の要素はそれぞれ猥褻文書たるために欠くことのできない要件をなすものと解すべきである。

すなわち、従来の判例に示された猥褻の意義に関する見解ないし定義は、刑法にいう猥褻の概念が、その規定自体からは必ずしも明らかとはいえないため、裁判所が具体的事件の判断において、その事案に則し、さらに検察官弁護人等の論旨に応えて打ち出されたものであり、それは、刑法上の猥褻の概念を、より明確にし、またより厳格に解し、もつて、法に安定性と劃一性とを与え、法の適用、運用を適正ならしめるためのものといわなければならない。(そしてこれ等の集積がいわゆる判例法をなし、猥褻に関する法の安定的な適用を保障しているのである。)従つて、その判例にあらわれた見解ないし定義は、これ等が打ち出された趣旨から見て、その意義を全体的に限定的、制約的に解すべきであり、この観点からすれば、前記(一)ないし(三)の要素は、原判決もいうようにそれぞれ、猥褻の文書たるために欠くことのできない要件をなすと認めるが相当である。

そして、従来の判例もこの趣旨においてなされていることは、判例にあらわれている判旨の文言自体からも文理上明らかに察せられるところである。すなわち、たとえば、前記昭和二六年の最高裁判所第一小法廷の判決は刑法第一七五条にいう猥褻とは、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」をいうとなし、ここでは少くとも「性欲の興奮、刺戟という前段を「性的羞恥心を害し、性的道義観念に反する」という後段に結び付けるのに「且つ」という接続詞を使つているのであつて、文理上いずれも要件とされていると解するが自然である。その後間もないチヤタレー事件の第一審判決(東京地方裁判所昭和二七年一月一八日判決)によれば猥褻文書は「一般的に性欲を刺戟するに足る表現があり、これにより人が性的興奮を惹起し理性による制御を否定又は動揺するに至るもので、自ら羞恥の念を生じ且つそのものに対して嫌悪感を胞く文書」と定義し、さらに同事件の第二審の判決(東京高等裁判所昭和二七年一二月一〇日判決)によれば「第一に、猥褻文書たるには徒らに、性欲を刺戟又は興奮せしめるに足る描写、又は記述の記載あることを要する」とし、さらに、第二の要件として「右第一の徒らに性欲を刺戟又は興奮せしめる記載がある結果、普通人即ち一般社会人の正常な性的羞恥心を害し且つ善良な性的道義観念に反するものなることを要する」と説示し、ここでも第二の要件とされている中に、前記(二)(三)の要件とされているものが且つという接続詞によつて併せ列挙されているのであるが、さらに、ここではじめて明文上いくつかの要素を明確に「……ことを要する」という形で表わしており、さらに、同事件の上告審たる前記最高裁判所の判決においては、「要するに判例によれば、猥褻文書たるためには、羞恥心を害することと性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求される」としているのであり、これ等の判例、特に最後の最高裁判所の判旨の文言から見れば、前記(一)(二)(三)の要素は、いずれも猥褻文書たるために欠くことができない三箇の要件をなすことを説示しているものと認められるのである。

もとより、これ等三箇の要素は互に密接な関係を有し、一箇の要素を具えているものは、同時に他の要素を具えている場合が少なくないとは認められるが、さりとて、検察官のいうように、文書の内容が性行為非公然性の原則に反する限り、これは当然人の性欲を刺戟興奮させることにより正常な性的羞恥心を害し、同時に善良な性的道義観念に反するという関係にあるとすることはできない。

右三箇の要素が以上説明のような関係にあるとすれば原判決が本訳書の内容が他の二箇の要件は充足するが、徒らに性欲を興奮又は刺戟させるという要件が欠けるものとして猥褻の文書たることを認めなかつたのは、その判断の仕方としては誤つているとはいえない。

しかしながら原判決が本訳書の内容は全体として性欲を徒らに興奮または刺戟せしめるものとは認められないとして、結局本訳書の猥褻性を否定したことは当裁判所のにわかに首肯し難いところである。

すなわち本訳書の中、検察官指摘の一四箇所の性的場面の描写は原判決の認めているように、いずれも同性または異性相互の間で行われる淫蕩、放埓な性的場面の描写であつて性的行為の姿態、方法、行為者の会話、その受ける感覚の記述を交えて相当露骨かつ具体的に描かれており、これ等の描写は前記最高裁判所判決のいう性行為非公然性の原則に反するものであることは疑いない。原判決は更にこれ等は明らかに普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書と認むべきであるとしながら、文書全体から見ればその部分は過度に性的刺戟興奮を来すものとは認められないとし、その理由を詳しく述べているのである。

なるほど本訳書は全体が異常に大胆卒直な性的場面の描写で貫かれているにかかわらず、一般にその内容が空想的、非現実的でありその表現は、無味乾燥であり、これがため、いわゆる春本等に比し、読者の情緒を官能に訴える要素がうすいことはこれを認めざるを得ない。また問題の性的場面で、残忍醜悪な場面と一体をなして描写せられ、あるいはこれと前後に接続して描写されたため、その性的場面の描写による性的刺戟の程度が、残忍、醜悪な場面に対する不快感により影響を受けていることも認められるのである。しかしながら、本訳書の内容を通読検討した結果によれば、原判決のいうような関係で、当該性的場面の人に与える刺戟、興奮が、全く消失するか、あるいは、社会通念に照し問題とならない程度に萎縮されているとは、到底考えられないのである。本訳書の問題部分は、原判決ならびに弁護人の見解にかかわらず、徒らに(過度に)性欲を刺戟せしめるに足る記述描写であると認められる。さらに、それは原判決も認めているように、普通人の正常な羞恥心を害し、且つ善良な性的道義観念に反するものと認められ、かような記述描写を含む本訳書は、結局刑法第一七五条にいう猥褻の文書にあたるものといわなくてはならない。原判決のこの点に関する判断は、法の解釈、適用を誤つたものであり、それが、判決に影響を及ぼすこと明らかであるから、原判決は破棄を免れない。なお、弁護人はその答弁書において、いわゆるチヤタレー事件に関する最高裁判所の判決は、今日において到底文明と法治国の規準に堪えないものとし、猥褻罪に関する問題点として

(一)  社会的に価値ある作品について猥褻罪を適用することは表現の自由(憲法二一条)学問の自由(同二三条)の保障に反しないか

(二)  右判決にいう「性行為非公然性の原則」は如何なる範囲で考えるべきか、性「行為」とその「表現」との本質的区別を如何に考えるか

(三)  作品の芸術的、思想的価値は猥褻罪の成否にどのような影響を与えるか、いわゆる両立説は現代の法と文明の原則に和牴触しないか

(四)  作者、訳者、出版者の意図は猥褻罪の成否に関係しないか

(五)  猥褻性の判断は作品全体を通じてなさるべきか、あるいは一部分でも猥褻なら全体として猥褻となるか

(六)  猥褻性の判断は誰を基準とすべきか、通常人か、未成年者か、あるいは未成年者を含む通常人か

(七)  作品はそれ自体として読者層や読書環境販売広告方法如何にかかわらず猥褻か否かが決定されるのか、それともそれ等の条件により相対的に決せられるのか

(八)  諸外国の判例、学説、立法の趣旨をわが国刑法第一七五条の解釈として取入れることはできないかとの諸点を挙げてその見解を述べているのであるが、かような問題点については概ね右最高裁判所および原判決が判断を尽していると認めるので以下簡単に所見を述べることにする。

(一)(三)について

論旨は結局その芸術性、思想性により社会的価値があると認められる作品は、刑法第一七五条の猥褻文書たり得ず、また、形式的に同条に該るとしても、同条を適用するのは憲法の保障する表現の自由または学問の自由を侵すものであるとするのである。

文書(作品)における猥褻性と芸術性、思想性との関係については前記最高裁判所の判決ならびに原判決の見解に従うものである。すなわち、猥褻性と芸術性思想性は、その属する次元を異にする概念で取り、芸術的思想的の作品であつても、これと次元を異にする道徳的、法的の面において猥褻性を有するものと評価されることは不可能ではない。そして作品が、その有する芸術性思想性にかかわらず、猥褻性ありと評価される以上、それが刑法第一七五条の適用を受け、その販売、頒布等が罪とされることは当然である。論旨はこの考え方を、猥褻という法的評価を無条件に優先させるもので不当であるというが、現行刑法の下では、裁判所は、文書が法にいう猥褻であるかどうかという点を判断すれば足りるのであつて、との場合、裁判所の権能と職務は、文書の猥褻性の存否を社会通念に従つて判断することにあつて、その文書の芸術的思想的の価値を判定することにはなく、また裁判所はかような判定をなす適当な場所ではない。結局裁判所においては、芸術性思想性の評価が猥褻性に関する法的評価に優先するとすることができないことは当然といわなければならない。表現の自由、あるいは、学問の自由も、憲法によつて保障された他の自由と同じく、公共の福祉のため制約を受ける場合あることは已むを得ないところである。刑法第一七五条は、性に関する社会秩序、性道徳の基盤を形成している普通人の正常な性的羞恥心およびその善良な性的道義観念の維持をその法益とし、この性に関する社会秩序は、社会秩序一般の重要な一環であり、憲法にいう公共の福祉の一部をなし、それ自体、法の力をもつて保護するに値するものといわなければならない。そしてこの法益の重要性から見て、この規定の適用の結果、表現の自由、学問の自由が一部制約を受けることが想定されるとしても、それ故に右規定自体を違憲とすることはできず、更に芸術性、思想性があり、社会的に価値があると認められる作品であつても、その内容の猥褻性の故に、この規定の適用によつて猥褻文書とされ、その結果出版が不可能となる事態が生じたとしても、その適用をもつて憲法に反するとすることができないのは当然である。

論旨は結局芸術至上主義の見地に立ち、法の任務とする性的秩序の維持、最少の性道徳を維持するという役割を不当に低く評価するものである。

なお、附言すれば、刑法第一七五条の「猥褻の文書」に関するわが国裁判所の伝統的の考え方は、文書に表現されている思想(テーマ)を問題とし、その思想が現存の性道徳性風俗に反するが故にこれを猥褻とする(いわゆるイデオロギー的猥褻)ものでなく、また、そこに取り扱われている反風俗、反道徳的なテーマ(たとえば、姦通、近親姦、獣姦)の故に、これを猥褻とするものではない。ただその叙述(表現)の仕方が前記最高裁判所判決のいう性行為非公然性に反するかどうかという点が問題となるのであつて、この観点に立てば、同条の規定によつて制約を受けるのは、ある思想の表現そのものではなく、叙述(表現)の仕方に止まるといえるのであり、(ただ、本訳書の性描写が作者サドの性思想の必然的結果であつて、かような性的描写によらなくては、その性思想を表現することができないという関係であれば、本条の適用によつてその思想そのものの表現が妨げられる結果とはなるが)このことは、猥褻と表現の自由との関係を考えるについて留意さるべきであろう。

(二)について

最高裁判所のいう性行為非公然性の原則は単に現実の性行為に関する原則たるに止らず、文書による性行為の表現についても認められなくてはならぬ原則である。論旨は、行為とその表現とは本質的に差異があり、行為に関する原則はそのままその表現に関し適用さるべきではないというが、文書による性的行為の表現は、その表現の仕方によつては、現実の性的行為が公然行われたと同様、あるいはそれ以上の心理的影響を、見る者に与え、更に文書の性質上、現実の性行為によるものより影響が広範囲に亘る虞れがあることを考えれば、文書による性行為の表現も、現実の性行為と同じく、性行為非公然性の原則の適用があると解するのが相当である。また論旨は、性の問題は人間の最も本源的、日常的のものであり、更に古来これに対する考え方ほど多岐に亘るものはなく、性については、特に表現の自由が尊重されなければならず、性行為非公然性の原則は、そのまま表現に適用さるべきではないと主張するが、この点については(一)において説明したとおりであり、特に、刑法第一七五条の規定が叙述の仕方に関するものであることに留意さるべきである。

(四)(六)(七)について

文書(作品)が猥褻であるかどうかの判断はその文書自体から客観的に判断されなければならない。このことは、読者の文書から受ける性的刺戟その他の心理的反応はその文書自体の内容に由来するものであることからして当然であり、文書自体に表れていない作者訳者、出版者の主観的意図如何にかかわらないからである。そして、刑法第一七五条の猥褻の文書たるためには、羞恥心を害すること、性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求されているのであるが、如何なる人を基準として考えるべきか。それは、原判決も詳しく説明している様に普通人のそれを基準とすべきであつて、性的描写が一般読者に与える性的刺戟や羞恥心の如きも、読者の年令、性別、教養、経験、生活環境の差異によつて、一律に決し難いところであるが、一般社会において、普通人の全部ないし大部分がほぼ同様の程度に受け取る性的刺戟および羞恥心の存することも否定できず、ある作品が与える性的刺戟や羞恥心の程度はかような普通人のそれを基準としなければならない。世の中には、ささいな性的刺戟にも敏感な年令の低い未成年者や性的に腐敗しやすい成人もあれば、反対に極端に性的に潔癖な人もあり、また通常の性的刺戟に対しても格別の反応を示さないような人もあることはいうまでもないが、かような特殊な人の受ける反応を基準として判断することはできない。ただ、その作品の特殊な性格(学術書、科学書、医学書というような)、出版方法(限定出版等)、販売広告の方法如何によりその読者層が自から限定され、あるいは、一定の読書環境が想定される場合があることは争えず、このような場合その作品の読者に与える心理的影響を、限定された読者層あるいは一定した読書環境における読者を基準として考えることは、あながち不合理とは考えられない。そして、この観点に立つとき、猥褻性の判断はその作品自体によつて判断されるのであるが、ただ猥褻性の判断を如何なる人を基準として定めるか(読者層が限定された場合には、その読者層におけるいわゆる平均人を、読書環境が一定している場合には、その環境における普通人を基準とすべきものと考える。)によつて文書の猥褻性が相対的に認定されることになり、一種の相対的猥褻性を認める結果となるが、この考え方は刑法第一七五条の猥褻の解釈にとり入れる余地があると考えられる。ただ、これは前述のような特殊の場合に考えられることであつて本訳書のように、普通の文芸書として出版され、一般に販売され、読者層も特別限定されていたとは認められないものについては、一般の普通人を基準としてその猥褻性が判断されるべきであつて、相対的猥褻の考え方をとるか否かはこの点の判断に影響はない。

(五)について

法の問題とする猥褻の観念は表現の仕方に関するものである関係上、その猥褻性の捉え方は部分的に観念されるとする外はない。そして文書の一部に猥褻部分があるときは文書の一体性からその文書が全体として刑法第一七五条の猥褻文書となるのである。但し、それは、一部の猥褻部分のため、他の部分が猥褻になるという意味のものでないことは勿論である。しかしながら、その部分も文書全体の一部としてその意義があり表現がなされているのであつて、問題となる性的描写の部分も、その文書の性格、その部分がその文書中に置かれている位置関係、前後の状況等によりその猥褻性が影響され、また文書(作品)そのものの有する芸術性、思想性の故に、更にその作品自体から窺われる作者の問題を扱かう真面目な態度等により、その問題の部分の猥褻性の判断が影響されるということは、もとよりあり得るところであり、問題の部分を機械的に他の部分と切離し、全体を離れた断片として観察さるべきでないことは当然である。

(八)について

イタリー刑法第五二九条、英国一九五九年法第四条一項の規定は前者は、芸術、科学の作品は原則として猥褻とみなさない旨、後者は猥褻(読者を腐敗堕落させる方向)の作品でも、その出版が公共の利益に合致するものであれば有罪としない旨を定めており、また合衆国における猥褻出版物等に関する判例は常に言論出版の自由を保障する同国憲法修正一条との関係をめぐつて展開されて来たことは、論旨のいうとおりであろう。そして、その立法、判例にあらわれた猥褻の罪に関する考え方がわが国の裁判所のそれと相当の開きが見られるのである。これ等の諸国における動向は、わが国の法解釈に多くの示唆を与えるものではあるが、これ等はいずれも、その国特有の性的倫理観念、猥褻に関する一般的ならびに法的観念に基くものであり、にわかに事情の異るわが国の法解釈の指針とすることはできず、本件においても、その考え方は採用できなかつた。

ただ相対的猥褻の理念は、わが国裁判所の伝統的な考え方とは相容れないが、その考え方はわが刑法の解釈についてとり入れる余地があると考える。如何なる趣旨でとり入れられる余地があるかは前に説明したとおりであるが、この考え方は作品の芸術的、思想的価値と猥褻性に関する、弁護人の見解を直接裏書きするものではないと考えられる。

以上説明するように論旨は結局理由があるから、刑事訴訟法第三九七第一項、第三八〇条により、原判決を破棄し、なお、本件の争点は本訳書の猥褻性の判断のみにかかわり、訴訟記録並びに原審において取り調べた証拠により直ちに判決をすることができるものと認められるから、同法第四〇〇条但書により更に判決する。

(罪となるべき事実)

被告人石井恭二は、昭和三三年一一月「現代思想社」を創立し、創立から昭和三四年一月まで東京都中央区日本橋江戸橋三丁目二番地に、昭和三四年一月から昭和三五年一月末まで同都千代田区九段四丁目六番地に、昭和三五年二月以降同区西神田二丁目一九番地に営業所を設けて出版業を営んでいるものであり、被告人渋沢龍雄は、フランスの作家マルキ・ド・サドの著作の翻訳、その他評論等の著述に従事しているものであるが、被告人石井恭二は、「現代思潮社」からマルキ・ド・サドの著作である「悪徳の栄え」を上、下二巻に分冊して飜訳出版することを思いつき、被告人渋沢龍雄にその計画をはかつた上右著作を約三分の一に縮少して飜訳することを依頼したところ、被告人渋沢龍雄はその計画を諒承し、その依頼に応じ、右程度に縮少した日本語訳を上、下に分けて順次完成して被告人石井恭二に交付し、同被告人は、その翻訳を各通読した上、上巻部分は「悪徳の栄え」という表題で昭和三四年六月頃下巻部分は「悪徳の栄え(続)-ジユリエツトの遍歴-」という表題で昭和三四年一二月一六日頃、それぞれ単行本として出版した。ところで右下巻部分は別紙のような一四箇所にわたる性交、性戯に関する露骨で具体的かつ詳細な性的場面の描写記述を含んでいる猥褻文書であるが、被告人石井恭二は、昭和三四年一二月一六日頃から昭和三五年四月上旬頃までの間、同都千代田区九段一丁目七番地東京出版販売株式会社等を通じて、多数の読者に対し、約一、五〇〇冊を売渡すとともに、昭和三五年四月七日前記同都千代田区西神田二丁目一九番地所在の営業所等において販売するため二九一冊を保管した。以上のように被告人両名は共謀の上、猥褻文書たる「悪徳の栄え(続)-ジユリエツトの遍歴」約一、五〇〇冊を販売し、かつ、二九一冊を販売の目的で所持していたものである。

(証拠の標目)<省略>

(法令の適用)

法律に照らすに、被告人両名の判示所為は各刑法第一七五条、第六〇条、罰金等臨時措置法第二条、第三条第一項第一号に該当するので、所定刑中いずれも罰金刑を選択し、その罰金額の範囲内において、被告人石井恭二を罰金一〇万円に、被告人渋沢龍雄を罰金七万円に各処し、被告人両名が右各罰金を完納することができないときは、刑法第一八条により、金千円を一日に換算した期間当該被告人を労役場に留置することとし、押収にかかる単行本「悪徳の栄え(続)-ジユリエツトの遍歴」二九一冊(昭和三五年東地領第九七〇〇号の二および東京高裁昭和三七年押第一〇四〇号の二ないし六五)は、本件犯行の組成物件で、犯人以外の者に属さないから、同法第一九条第一項第一号、第二項により被告人両名からこれを没収し、原審の訴訟費用は、刑事訴訟法第一八一条第一項本文、第一八二条に従い、全部被告人両名の連帯負担とすることとし、主文のように判決をする。

(裁判長判事 加納駿平 判事 河本文夫 判事 清水春三)

検察官山本清二郎の控訴趣意

本件訳書「悪徳の栄え(続)-ジユリエツトの遍歴-」と題する単行本には、少なくとも検察官指摘の十四箇所に性的描写の記述があつて、これが刑法第一七五条にいわゆる「猥褻の文書」に該当すること明白であるにかかわらず、原判決は、同条の解釈適用を誤つた結果、本書を猥褻文書に該当しないものとして無罪の言渡しをするに至つたもので、到底破棄を免れないものと思料する。以下にその理由を述べる。

第一、原判決は、猥褻文書の意義につき、「刑法第一七五条にいわゆる『猥褻の文書』が、いかなるものをいうかは、法の規定自体からは必ずしも明らかではないが、昭和三二年三月一三日のいわゆるチヤタレー事件に関する最高裁判所大法廷の判決は、従来の大審院および最高裁判所の判例を受け継ぎ、『その内容が、徒らに性欲を興奮または刺戟せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう』と定義し、さらに猥褻文書たるためには、『羞恥心を害することと、性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求される』として三箇の要素を掲げている(最高裁判所刑事判例集一一巻三号九九七頁)のであるが、当裁判所もまたこの判決の示した猥褻文書の概念は、正当として維持すべきものと考える。」として前記最高裁判所大法廷の判決に従うことを明らかにしながら、右三要素の関係につき、「これら三箇の要素は、相互に密接な関係を有し、一箇の要件を充足するものは、同時に他の要件をも充足しているのが通常であるが、さりとて単に同一の実体を三箇の側面から表現したにすぎないものではなく、猥褻文書たるためには、三箇の要件をともに充足することが必要であつて、その一つを欠くものがあれば、これをもつて猥褻文書とすることはできない。このことは、一般の刑罰法規の解釈と異るものではない。」とし、ついで猥褻文書の判断基準につき、まず、性欲の刺戟興奮あるいは性的羞恥心の関係を論ずるにあたつては、「一般社会の普通人にとつて、いかなる文書が徒らに性欲を刺戟、興奮せしめるものであるかは、当該文書の具体的な内容を客観的に考察し、社会通念にしたがつて判断すべきである。前記最高裁判所の判例は、いかなる社会においても認められ、また一般に守られている性行為非公然性の原則に反する内容をもつて標準としているものであるが、この原則の本来有する意義は、いうまでもなく、人間は性交その他の性的行為を公然行なうべきではないとの原則であつて、この原則は、性に関する社会通念が一時代前にくらべ、著るしく変化し、他の解放がさけばれ、往昔存在していたタブーが漸次撤廃されつつあるにもかかわらず、超ゆべからざる限界として、今日もなお厳然として存在する。これが人間の自然的本質によるものか、歴史的所産であるかについては議論の存するところであろうが、現代の文明社会において、この原則の普遍妥当性を否定するものはないであろう。そして、もしこの原則に反する行為が行なわれれば、普通人たる者は、何人といえども性欲を過度に刺戟興奮せしめられ、性的羞恥心を害せられるであろうことは疑う余地のないところである。また現実に性的行為を公然行なうものではないにせよ、これと同一の効果を生ずるおそれのある内容の文書は、それが文書たるの性質上、現代および次代の社会一般人によつてひろく読まれるべきものであるから、性に関する社会秩序を侵害する程度は、性行為が公然行なわれる場合に比し勝るとも劣らないものというべきである。それゆえ、かような内容の文書を公表すべきでないことも健全な社会においては欠くべからざる要請のひとつである。ところで文書の記載内容がいかなる場合に性的行為を公然行なつたと同一の効果を生ずるおそれがあるかについて、一般的に言えば、作中の人物等の性交、その姿態、性交の前後に接着する性的行為これらに関連して発せられる言語や音声の表現、性器の状態等について露骨、詳細な描写または記述の如きものが、これにあたるといえるであろう。」として、前記最高裁判所判決の立場を採り、性行為非公然性の原則に反する具体的な描写記述を含むか否かをもつてその判断の基準とすべきことを述べ、また、本件訳書の猥褻性を判断する場合の問題点の一つとして、本書に表現されたサドの思想の有害性は、猥褻性の判断に影響がないことを論ずるにあたつても、右趣旨を繰り返えし、「問題は、本件訳書の内容が『徒らに性欲を興奮刺戟し、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するか』どうかという点のみである。そして、ここにいう『性的道義観念に反する』とは、性行為非公然性の原則に反する具体的な描写を含むかどうかという、普遍的な最少限度の道徳に関するものをいうのであつて、姦通、近親相姦等の反道徳的、反風俗的行為自体を問題にしているものではないし、いわんや、性行為非公然性の原則に反することがらを抽象的表現をもつて唱導することさえ、猥褻の名において禁圧しようとするものでもない。現行法のもとでは、これらをテーマとする文学作品は、性行為非公然性の原則に反する具体的な描写を内容としていない限り、たとえ、反風俗的、反道徳的であつても、これを理由に処罰することはできない。それゆえ作品が、性行為非公然性の原則に反する場合にも、そこで取り扱われる姦通や近親相姦の如き反風俗的、反道徳的なテーマは、猥褻性の判断に影響を及ぼさないと解する。要するに文書が猥褻かどうかは、性行為非公然性の原則に反する具体的な内容をもつかどうかという観点に立つてのみ判断しなければならないのである。」とし、これまた前記最高裁判所判決に従う趣旨を明らかにしながら、後述するごとく、「作品はこれを全体として考察し、猥褻文書にあたるかどうかを判断すべきである」とし、「その結果、個々の記載のみでは、たとえ過度の性的刺戟を受けることがありえても、全体的にみて通常の性的刺戟を受けるに止まるか、全くこれを受けることがなければ、猥褻文書としての要件を欠くものといわなければならない。」という全く独自の見解を展開し、結論として、「本件訳書は、これを全体としてみた場合、その内容が、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものと認められるにもかかわらず、性欲を徒らに刺戟または興奮せしめるものとは解されず、したがつて、刑法第一七五条にいう『猥褻ノ文書』に該当するものではない」と断じているのであるが、原判決は、まず、前記最高裁判所大法廷判決にいうところの「羞恥心を害すること」、「性欲の興奮、刺戟を来すこと」および「善良な性的道義観念に反すること」をそれぞれ全く独立、並列的関係にあるものと解し、文書の内容が性行為非公然性の原則に反する具体的な描写記述を含むことにより、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものと認められるにもかかわらず、なおかつ、性欲を徒らに刺戟または興奮せしめない場合があるとした点において、刑法第一七五条の解釈を誤つた違法がある。刑法第一七五条にいわゆる猥褻文書とは、「その内容が徒らに性欲を興奮または刺戟せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書をいう」ものであること、前記大法廷判決の示すところであるが、しからば文書がいかなる内容をもつときに、それが、「徒らに性欲を刺戟または興奮せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」というべきかについては、文書が性行為非公然性の原則に反する程度に具体的な内容をもつか否か、すなわち、文書の内容が性的行為を公然行なつたと同一の効果を生ずるおそれがある程度に作中人物の性的行為が具体的に描写、記述されているか否かによつて決定されるものと解すべきである。そして、かような具体的内容をもつ文書である限り、一般社会人はこれを読むとき公然性的行為が行なわれた場合と同様に、人間の自然的面において性欲を興奮、刺戟せしめられるものであるといわなければならず、また、かように性欲を興奮、刺戟せしめられることにより人間の動物的存在の面を意識させられるため、人間の品位がこれに反撥を感じ、性的羞恥の感情をいだかしめられるものであり、かような文書を公表することは、また同時に善良な性的道義観念に反するものであるといわなければならない。換言すれば、猥褻文書の定義における「正常な性的羞恥心を害すること」、「性欲の興奮、刺戟を来たすこと」、「善良な性的道義観念に反すること」の三要素は、それぞれ独立して並列的関係にあるものではなく、性行為非公然性の原則を基準とし、文書がこの原則に反する内容をもつものと判断される限り、右文書は当然人の性欲を刺戟興奮せしめることにより正常な性的羞恥心を害し、同時に善良な性的道義観念に反するものといわなければならないという関係に立つものである。このことは、前記大法廷判決が、問題の文書(チヤタレー夫人の恋人)が猥褻文書に該当するか否かの判断にあたり、さて本件訳書を検討するに、その中の検察官が指摘する一二箇所に及ぶ性的場面の描写は、そこに春本類とちがつた芸術的特色が認められないではないが、それにしても相当大胆、微細、かつ写実的である。それは性行為の非公然性の原則に反し、家庭の団欒においてはもちろん、世間の集会などで朗読を憚る程度に羞恥感情を害するものである。またその及ぼす個人的、社会的効果としては、性的欲望を興奮刺戟せしめまた善良な性的道義観念に反する程度のものと認められる。要するに本訳書の性的場面の描写は、社会通念上認容された限界を超えているものと認められる。(前記判例集一〇〇七頁)と説示し、当該文書の性的場面の描写が相当大胆、微細、かつ写実的であつて、性行為非公然性の原則に反し、羞恥感情を害するものであるということを猥褻文書の中心概念として述べるとともに、その性的場面の描写をその及ぼす効果の面からみて、右描写が個人的効果として性欲を興奮刺戟せしめ、その社会的効果として善良な性的道義観念に反する程度のものと認められるとして説示していることによつても明らかであるが、さらに同判決が猥褻文書の意義を本条の立法の趣旨ないし保護法益との関連において説示するにあたり、羞恥感情の存在は性欲について顕著である。……(性欲は)人間が他の動物と共通にもつているところの人間の自然的面である。従つて人間の中に存する精神的面即ち人間の品位がこれに対し反撥を感ずる。これすなわち羞恥感情である。……性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露である。……羞恥感情の存在が理性と相俟つて制御の困難な人間の性生活を放恣に陥らないように制限し、……性に関する道徳と秩序の維持に貢献しているのである。ところが猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。もちろん法はすべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではない。かような任務は教育や宗教の分野に属し、法は単に社会秩序の維持に関し重要な意義をもつ道徳すなわち「最少限度の道徳」だけを自己の中に取り入れ、それが実現を企図するのである。刑法各本条が犯罪として掲げているところのものは要するにかような最少限度の道徳に違反した行為だと認められる種類のものである。性道徳に関しても法はその最少限度を維持することを任務とする。そして刑法一七五条が猥褻文書の頒布販売を犯罪として禁止しているのも、かような趣旨に出ているのである。(前記判例集一〇〇四頁、一〇〇五頁)と述べていることに徴しても一層明らかであると思料する。なお、この点はいわゆるチヤタレー事件に関する昭和二十七年十二月十日東京高等裁判所刑事部判決(高等裁判所刑事判例集、五巻一三号二四四四頁ないし二四四七頁)も同趣旨である。さらに、同判決は、「猥褻文書」たるには、徒らに、性欲を刺戟又は興奮せしめるに足る描写又は記述の記載があることを要することはいうまでもないところであつて、如何なる記載がこれに該当するかは、当該文書の具体的な記載を客観的に一般社会人の良識に照らし判断すべきものと考える。そして、一般的にいえば、個人又は小説等の作中の人物の性器又は性交等の性的行為の露骨詳細な描写又は記述の記載がこれに該当すると解すべきである。と説示した上、例えば、個人又は小説等の作中の人物の性交、性交の前後に接着する接吻、抱擁その他性交の前技若しくは後技、これらの行為に関連して発せられる言語若しくは音声の表現、行為者の受ける感情若しくは感覚の表現又は性交に関連する性器の状態の露骨詳細な描写又は記述の記載の如きものが、徒らに性欲を刺戟又は興奮せしめるに足る記載に該当することは疑いのないところであろう。と説明し、かつ、かような文書図画が性行為公然性の原則に反するものであると説示しているのである。(同判例集二四四二頁、二四四三頁)ところで、原判決は、一方において、「もしこの原則(性行為非公然性の原則を指す。)に反する行為が行なわれれば、普通人たる者は、何人といえども性欲を過度に刺戟興奮せしめられ、性的羞恥心を害せられるであろうことは疑う余地のないところである(原判決書一二頁)。」と述べ、また、いかなる文書が徒らに性欲を刺戟興奮せしめるものであるかは、右性行為非公然性の原則、すなわち文書の記載内容が性的行為を公然行なつたと同一の効果を生ずるおそれがあるか否かを基準として判断すべきものである旨(原判決書一二、一三頁)述べ、さらに本件訳書の猥褻性判断の問題点の一として本書に表現されたサドの思想の有害性が猥褻性の判断に影響がないことを論ずる際にも、繰り返して、「文書が猥褻かどうかは、性行為非公然性の原則に反する具体的な内容をもつかどうか、という観点に立つてのみ判断」すべきであるとし、従つてまた、「ここにいう『性的道義観念に反する』とは性行為非公然性の原則に反する具体的な描写を含むかどうかという、普遍的な最少限度の道徳に関するものをいうのである」とし(原判決書二六、二七頁)、かつ、本件訳書の猥褻性の有無の判断にあたり、「そこで、はじめに検察官指摘の一四箇所の性的描写について逐一検討すると、これらは、いずれも同性または異性相互の間で行なわれる淫蕩にして放埓な性的場面の描写であつて、性的行為の姿態、方法、行為者の会話、その受ける感覚の記述を交えて、相当、露骨かつ具体的に描かれている。……単に異常な性行為の種類や単語を抽象的に列挙したというに止まるものではなく、前後の関係から大体の意味を了解しうる性器および性行為の用語を使用し、行為者の会話や受ける感覚を交え、具体的な人間の行為として描写されており、これが作者の異常奔放な想像力の産物であつて、現実の人間がこれを実行することが、およそ不可能なものであるとしても、社会一般人の性的羞恥感情を傷つけるに足りる程度の具体性と詳細さをもつて描かれているというべきである。さらに、本件訳書を全体としてみた場合、検察官指摘の一四箇所の本件訳書中に占める分量は一〇分の一程度にすぎないが、これは、本件訳書が刑法上問題とされる中心的部分の指摘にほかならず、他にも多くの性的交渉場面の描写を散見しうるのであつて、作者が、人間性の暗黒面をかような性的交渉場面を通じて表現し、また性的交渉場面の反覆が、前に述べたような作者の抱く思想観念の検証の手段にほかならないとしても、本件訳書中に登場するあらゆる人物は、すべて淫蕩な場面の展開に必要な役割を与えられており、これらの人物のさまざまな組み合せによつて、明らかに現代の性的道義観念に反する異常性行為のあらゆる形態を赤裸々に読者に提示し、本件訳書全体を淫蕩な作品たらしめていることは否定し難いところである。また、これらの性的交渉場面を一貫して流れるものが性の讃美であるか、性の侮蔑と憎悪であるかということも、読者の性的羞恥感情や性的道義観念を害するかどうかを判断する妨げとなるものではない。要するに、本件訳書を現代の社会一般の持つ良識、すなわち社会通念に照らして判断すれば、明らかに普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書というべきである(原判決書二七頁ないし三〇頁)。」と述べ、本件訳書は性的行為の描写が具体的な人間の行為として相当露骨かつ具体的に描かれていて、明らかに普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反する文書というべきであると判断しており、この判断は、原判決の前記見解によれば、当然その前提として本書の記載内容が性行為非公然性の原則に反する程度の具体性をもつものであることを判断していることとなり、かように判断する限り、論理上当然に、徒らに性欲を刺戟、興奮せしめるものと判断しなければならないはずのものである。しかるに、原判決は、他方において、本書が徒らに性的刺戟を与えるものではなく、したがつて猥褻文書たるの要件を欠くものと判断しているのであつて、原判決は、この点において刑法第一七五条の解釈を誤つたものといわなければならない。

第二、原判決は、猥褻文書の判断基準につき、文書の性的刺戟の有無を判定するにあたつては、「問題の個々の記載のみを取り上げ、これを部分的、孤立的に判断することは、文書たるの性質を無視したものといわなければならない。……文書にあつては、現実の行為と異なり、当該描写がもつ内容との関連ないしは当該描写の作品中におかれている前後の状況などを全体として考察し、普通人をして徒らに性欲を興奮刺戟せしめるものであるかどうかを判断しなければならない。このことは、性的刺戟の程度を普通人の正常なそれを基準として判断しようとするものである以上、読者に一括して提示された作品の全体を通読しようとする正常な読書態度を基準とすべきであり、問題の性的記述のみをひろい読みしようとする読書態度を前提とするべきではないことからいつても当然である。この全体的考察は、もとより専門的知識や経験をもつ人が行うそれではなく、普通人がなす全体的考察であつて、日常の用語をもつてすればいわゆる読後感にほかならない。その結果、個々の記載のみでは、たとえ過度の性的刺戟を受けることがありえても、全体的にみて通常の性的刺戟を受けるに止まるか、全くこれを受けることがなければ、猥褻文書としての要件を欠くものといわなければならない。それは、個々の性的描写部分が持つところの性的刺戟を凌駕する他の刺戟によつて、性的刺戟が、相対的に軽減されるか、若しくは消失せしめられるからにほかならないのであつて、この場合、読者が他の刺戟によつて抱く感覚には、人間精神の高揚や情操の醇化に役立つような深い感動、高度の緊張ないし爽快感があり、反対に残忍醜悪などの不快感、さらにこれらが交錯した複雑な感覚もあるが、いずれにせよ、個々の記載が持つ過度の性的刺戟が軽減または消失することなく、読後にまで残るような文書こそ、猥褻文書というべきである。」とし、ひいて、「本件訳書は、全体が異常に大胆、卒直な性的場面の描写で貫ぬかれているにもかかわらず、一般的にその内容は、空想的、非現実的であり、その表現は、無味乾燥であつて、読者の情緒や官能に訴える要素が乏しいばかりでなく、検察官指摘の性的場面のうち、一部には春本類似の描写によつて性的刺戟を与える箇所もないではないが、これらは、いずれも殺人、鞭打、火あぶり、集団殺戮など極度に残忍醜悪な場面の描写と不可分的に一体をなすか、あるいは性的描写の前後に接続し、このため、一般読者に極めて不快な刺戟を与え性的刺戟の如きは、この不快感の前には全く消失させられるか、殆んど萎縮させられる性質のものと認められる。」と述べて、本件訳書を全体的にみれば、「一般社会の普通人は、本件訳書の持つ残虐醜悪な雰囲気に圧倒され、過度な性的刺戟を受けることは殆んどないと認められるのであつて、この点において、本件訳書は、猥褻文書たるの要件を欠くものといわなければならない」と断ずるに至つていゐが、この点においても、原判決は、刑法第一七五条にいわゆる「猥褻ノ文書」の解釈を誤り、ひいて同条の適用を誤つた違法があるものといわなければならない。

一、いかなる文書が徒らに性欲を刺戟、興奮せしめるものであるかは、前述のごとく当該文書の具体的な内容が性行為非公然性の原則に反するか否か、すなわち、文書の記載内容が性的行為を公然行なつたと同一の効果を生ずるおそれがある程度に具体的に描写記述されているか否かによつて決すべきものである。そして、ある作品が性行為非公然性の原則に反する具体的な描写記述をもつ限り、たとえその部分が全体中の一部分であろうと、大部分であろうと、一般読者がその記載部分を読む際において性欲を刺戟興奮せしめられ、したがつてまた性的羞恥心を害されるであろうことに変りはないのであつて、かような効果をもつ限り、これを猥褻でないとする理由はなく、前記大法廷判決の説示する本条の立法趣旨ないし保護法益からみても、その記載部分の公表を放置すべきでないことは当然である。すなわち、猥褻性の存否の問題については、右のような記載部分がある限り、これを猥褻性ありといわなければならないのであつて、かような部分が全体中の一部であるか大部分であるかは、猥褻性の存否自体の質的問題ではなく、当該文書中に猥褻性を有する記載部分が少ないか多いかという量的な問題にすぎないのである。そして当該文書の一部にでも右のような記載部分がある限り、当該部分を削除する等の手段を講じない以上、当該記載部分と物理的、不可分的に一体をなしている当該文書全体を猥褻文書として取り扱うべきことは刑法上当然の事理である。

(一) この点につき、判例の説くところをみるに、前記大法廷判決は、さて本件訳書を検討するに、たその中の検察官が指摘する一二箇所に及ぶ性的場面の描写は、そこに春本類とちがつた芸術的特色が認められないではないが、それにしても相当大胆、微細、かつ写実的である。それは性行為の非公然性の原則に反し、家庭の団欒においてはもちろん、世間の集会などで朗読を憚る程度に羞恥感情を害するものである。またその及ぼす個人的、社会的効果としては、性的欲望を興奮刺戟せしめまた善良な性的道義観念に反する程度のものと認められる。要するに本訳書の性的場面の描写は、社会通念上認容された限界を超えているものと認められる。従つて原判決が本件訳書自体を刑法一七五条の猥褻文書と判定したことは正当であり、上告趣意が裁判所が社会通念を無視し、裁判官の独断によつて判定したものと攻撃するのは当を得ない。(前記最高裁判所判例集一〇〇七頁)と判示して、一個の書物の中に「猥褻文書」に該当する要素が含まれている場合には、その書物自体が猥褻文書であると判断しているのである。また、前記大法廷判決が猥褻文書の定義を説示するに際し引用している昭和二六年五月一〇日第一小法廷判決(最高裁判所判例集五巻六号一〇二六頁以下)も、被告人は第一「好色話の泉」と題した男女の性交並びに男女陰部を表現した、戯文等の記事を、第二「其の夜我欲情す」と題し死女を姦淫する光景を、また、「変態女の秘戯」と題し変態女の性交を夫々詳述した記事を、第三「処女の門、十七の扉ひらかる」と題する男女性交の光景を記述した記事を夫々掲載した新聞各一万二千部づつを販売したというのであつて、その記事はいずれも徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反するものと認められるから、原判決がかかる記事を掲載した多数文書を販売した被告人の所為を刑法一七五条所定の猥褻文書の販売行為に該当するとしたのは正当である。として、新聞中の問題の記事の猥褻性を問擬し、右記事が猥褻であることからその記事を含む新聞自体を猥褻文書であると判示しているのである。

(二) 原判決は、作品の全体的考察ないし通読を要することの理由として、性的行為が公然実行された場合には、社会の一般人は、これからほぼ同様な程度の性的刺戟を受けるけれども、作品中における性的行為の描写は、それが本質的に文字による表現であることからして、同一の情景の描写であつても、その表現の方法、巧拙や、性的描写の置かれている状況等によつて、読者に与える性的刺戟の程度は、劃一的ではなく、そこに強弱の差が認められるから、問題の個々の記載のみを取り上げ、これを部分的、孤立的に判断することは、文書たるの性質を無視したものといわなければならない。それゆえ、文書にあつては、現実の行為と異なり、当該描写がもつ内容との関連ないしは当該描写の作品中におかれている前後の状況などを全体として考察し、普通人をして徒らに性欲を興奮刺戟せしめるものであるかどうかを判断しなければならない。このことは、性的刺戟の程度を普通人の正常なそれを基準として判断しようとするものである以上、読者に一括して提示された作品の全体を通読しようする正常な読書態度を基準とすべきであり、問題の性的記述のみをひろい読みしようとする読書態度を前提とするべきではないことからいつても当然である。(原判決書一三頁ないし一五頁)と述べている。しかしながら、表現の方法や巧拙等によつて人に与える性的刺戟の程度に強弱の差があることは、文書の場合に特有のものではなく、猥褻行為を公然行なう場合においても、その露骨さの程度、姿態、着衣、背景等によつて差がありうるものであり、また、性的行為を公然行なう場合においても、その性的行為の場面の前後に他の情景が接着することもありうるのであつて、この性的場面の置かれている状況によつて全体的にはその与える性的刺戟の程度に差があることもありうるのである。しかも性的刺戟の程度の差はあくまで量的の問題に過ぎず、性的刺戟の存否という質的な問題ではないのである。したがつて、表現の方法や性的場面の置かれている状況等により人に与える性的刺戟の程度に差があることをもつて文書の有する特質であるとすることは誤りであるとともに、仮りにその前提が正しいとしても、量的な問題を質的な問題と同一視することはできず、さらにまた、その前提から直ちに原判決のいう全体的考察を要するとの結論に至るべき必然的な理由はなんら存在しないのである。つぎに、原判決は、全体的考察を要することの他の理由として、読者に一括して提示された作品の全体を通読しようとする正常な読者態度を基準とすべきであつて、問題の性的記述のみをひろい読みしようとする読書態度を前提とするべきではないことを挙げている。しかしながら、文書は文字による表現であることからして、通続する場合においても順次文字を読んで行くことを当然必要とし、したがつて読書に伴う刺戟も文書を逐次読み進むに従い、その場面、記述内容の異るに従つて異るものである。あるいは性的刺戟を受け、或いは残忍醜悪性による不快感、或いは悲劇性による悲壮感などの刺戟を受け、またはこれらの二つ以上の刺戟を受けることもあるであろう。また、通読といつても実際において文書は一時に全部通読されるとは限らず、何回かに分割して読まれることがあり(本書の場合にはその全部を一時に通読することはその頁数および内容からみてむしろ困難である。)、しかもその分割の程度も人により同一ではなく、通読の具体的状況は一定してはいない。さらに、文書は、必ずしもその始めから終りまでを同一の読書態度、同程度の慎重さ、ていねいさをもつて読まれるとは限らず、また、ある部分を読み返されることもあり、さらに、いわゆるひろい読みないし飛び読みされることもあるであろうし、通読されるとの保障はない。そして、いずれにしても当該文書のうち、性行為非公然性の原則に反する程度の描写、記述部分に接すれば、読者は当該部分から性的刺戟を受け、性的羞恥心を害されるに至ることは明らかである。なお、原判決のごとく、猥褻性の存否を当該作品の全体的考察ないし全体を通読した上の読後感によつて判定すべきものとするならば、仮りに一部に猥褻な描写記述をしても、他の箇所において残忍醜悪による不快感、悲劇性による悲壮感などの他の刺戟を与えるよう強調された作品は、猥褻文書には該当しないこととなつて、立法の趣旨を没却するに至ることとなる。要するに、当該著作のテーマの理解や芸術的、思想的ないしは科学的価値の評価に際しては、全体的考察ないし通読の必要があることもあるであろうが、問題は文書の猥褻性の存否であつて、この法的見地においては当該著作の一部にでもかような記載部分がある限り、これを猥褻文書でないとする理由は全く存しないのである。

(三) 本来猥褻文書は、それが猥褻性を有するということ自体が犯罪とされるものではなく、販売頒布等の公然性をもつ場合に初めて刑法第一七五条の犯罪とされるものであり、このことは、猥褻行為たとえば男女間の性交等もそれ自体は刑法第一七四条の犯罪とされるものではなく、これが不特定または多数人の知りうるような状況のもとで行なわれ、公然性をもつ場合において初めて犯罪とされることと同様である。すなわち、ある文書が猥褻文書であるということは、その文書のもつている客観的性質であり、これが頒布販売等されることによつて、猥褻文書の頒布、販売等の罪を構成する。したがつて、文書の猥褻性の存否は、当該文書の記載内容自体から純客観的に社会通念によつて判定されるべきものであることは理の当然であり、文書の記載内容自体において前記猥褻性の要件に該当する描写記述をもつ以上、これを猥褻文書というべきであつて、猥褻文書であるか否かの判断にあたり、通読の有無等の読書態度いかんを基準とするべきものではない。この点につき前記大法廷判決の説示するところをみるに、同判決は、本件において、前掲著作の頒布、販売や飜訳者の協力の事実、発行の部数、態様、頒布、販売の動機等は、あるいは犯罪の構成要件に、あるいは情状に関係があるので証人調に適しているし、また著者の文学界における地位や著作の文学的評価については鑑定人の意見をきくのが有益または必要である。しかし著作自体が刑法一七五条の猥褻文書にあたるかどうかの判断は、当該著作についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である。問題の著作は現存しており、裁判所はただ法の解釈適用をすればよいのである。このことは刑法各本条の個々の犯罪の構成要件に関する規定の解釈の場合と異るところがない。この故にこの著作が一般読者に与える興奮、刺戟や、読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。(最高裁判所判例集一一巻三号一〇〇五、一〇〇六頁)と述べ、また猥褻性の存否は純客観的に、つまり作品自体からして判断されなければならず、作者の主観的意図によつて影響さるべきものではない。(同判例集一〇〇九頁)と説示し、さらに、何が猥褻文書なるかの判定については、一定の読者層に対する影響のみを考えるべきではなく、広く社会一般の読者を対象として考慮に入れるべきである。(同判例集一〇一〇頁)としているのであつて、これらの説示を総合すれば、同判決が、文書の猥褻性の存否は作品の記載内容自体からして客観的に社会通念により判断されるべきものとする趣旨であることは明らかであると考える。そして、文書の猥褻性は、当該文書のもつ客観的性質であつて、その記載内容自体につき客観的に判定すべきものとする立場からは、読者の通読という読書態度を猥褻性の判断基準に採り入れるべしとする必然的理由は、なんら存在しないのである。すなわち、文書の猥褻性の存否は、文書の記載内容自体において性行為非公然性の原則に反するものがあるか否か、換言すれば社会一般の読者に性的刺戟を与え性的羞恥心を害するような記載があるか否かによつて決せられるべきものであつて、読者がその作品全部を通読すべきであつて、ひろい読みすべきではないとか、問題の描写の作品中におかれている前後の状況をも全体的に考察すれば他の刺戟を受けるはずであるとかいうような、読者に一定の読書態度を要求しその読書態度を前提として判断されるべきものではないのである。なお、原判決は、ある作品が性欲を刺戟興奮させるものであるかどうかは普通人を基準として判断すべきものと述べた後、「医学書や科学書の如く専門家のみを対象としたり、あるいは青少年またはことさら低俗な読者を対象としたと認められる出版物の如く、文書のもつ客観的な性質、内容から読者層が明らかに限定され、そのため当該文書を読むことのないような階層を除外して判断することが、相当な場合もないとはいえないが、かような特殊の文書でない一般普及を目的とした文芸作品等にあつては……。(原判決書八、九頁)」と述べ、文書の猥褻性の存否を判断するにあたり、当該文書の性質、内容により一定の読者層を基準にして考えるべき場合もあるとして文書の猥褻性の存否が当該文書の予定する読者層のいかんによつて左右される場合のありうることを述べているが、読者層のいかんは本来当該文書とは別個のものであつて、この点に関する原判決の見解は、文書の猥褻性は文書のもつ客観的性質であつて、その記載内容自体につき客観的に判定されるべきものとする前記立場に反するものである。また、原判決は、本件訳書が猥褻文書に該当するか否かを判断するに際し、その冒頭部分において、「本件訳書が、人間の低俗な興味に訴えることのみを目的とする春本等とは、全然類を異にするものであることはいうまでもない。それゆえ、もし本件訳書を文学、心理学、精神医学その他の研究等に資する目的で、学者や文学者のために限定出版(単に、限定版と銘打ち、通常の価格よりも高い定価を付したというだけでは、ここにいう限定出版とばいえないこと勿論である。)に付し、それを該読者が出版の目的の範囲内で、いかように利用しようとも、もとより法律の干渉すべき筋合のものではない。問題は、性的描写を含む本件訳書を一般普及を目的として公刊することが、性に関する最少限度の社会秩序と道徳を維持しようとする法律の目的からいって許されるかどうかに存する。(原判決書二三、二四頁)」と述べているが、右のような限定出版が罪にならないとされる場合は、それが公然性をもたない点において本条の構成要件を充足しないためと解するべきであつて、限定出版であるか否かは、当該文書の猥褻性の判定自体には無関係であるべきことも留意されなければならない。

二、原判決は、猥褻文書の判断基準につき前記のような独自の見解を示したうえ、本件訳書は、性欲を徒らに刺戟または興奮せしめるものとは解されない、としたが、これは、本件訳書の猥褻性についての法的判断を誤つたもので、刑法第一七五条の適用を誤つた違法があるといわなければならない。本件訳書は、それが文芸作品であることから当然のことながら、その性的行為はすべてこれが具体的な人間の行為として現実的に描写されており、起訴状指摘の(一)の場面は、ジユリエツトとオランプとの間の女性間の性行為とこれに続く娘達をも交えた女性間の性行為、(二)の場面は、ジユリエツト、オランプ、ギイジ、ブラツチアーニ等の男女の相互間の性行為、(三)の場面は、ジユリエツトの行なう犬との性行為、(四)の場面は、ブラスキとジユリエツト間の性行為、(五)の場面は、右両名が多数の男女を淫蕩のなぐさみ者に使いながら行なう性行為、(六)の場面は、プリザテスタ、スブリガニ、ジユリエツト、クレアウイルの男女が入り乱れて行なう性交、性戯、(七)の場面は、ソフイー、エンマの女性間の性行為、(八)の場面は、プラヘ司会の下に行なわれた男女入り乱れての性行為、(九)の場面は、ジユリエツトがフヱルヂナンドらとともに、同人の行なつた虐殺の直後その家族の姙婦、子供その他青年等をなぶりものにして行なう淫蕩行為、(十)の場面は、その男女入り乱れての性行為、(十一)の場面は、ジユリエツトとヂユランの女性間の性行為、(十二)の場面は、ゼノ、ジユリエツトらが小女をなぐさみものにしながら行なう男女間の性交、女性間の性行為、(十三)の場面は、ジユリエツト、フリネエら女性間の性行為、(十四)の場面は、ジユリエツトとノアルスイユがその娘息子達に残虐行為を加えることによつて性的刺戟を強く受けながら行なう、男女間、男性間の性交その他の性行為の各情景をそれぞれ中心として描かれ、これらの性的行為の記載は、性器及び性行為の同語が使用され、その姿態、方法、性器の状態、性的行為に関連して発せられる行為者の言語や音声、行為者の受ける感覚、官能的享楽等の描写記述がきわめて大胆、露骨にして具体的、詳細になされている。このことは、本件訳書の記載自体によつて明らかであつて、これらの描写記述は、判例にいう、一般社会人をして徒らに性欲を刺戟、興奮せしめるに足りる記載に該当し、かつ、一般社会人の正常な性的羞恥心を害し、性的道義観念に反するものといわなければならず、右記載を含む本書は刑法第一七五条のわいせつ文書であるといわなければならないのである。原判決も、いかなる文書が徒らに性欲を刺戟興奮せしめるものであるかについては、当該文書の記載内容が性行為非公然性の原則に反する程度に具体的に描写記述されているか否かによつて決すべきものとし、文書の記載内容がいかなる場合に性的行為を公然行なつたと同一の効果を生ずるおそれがあるかについては、「一般的に言えば、作中の人物等の性交、その姿態、性交の前後に接着する性的行為、これらに関連して発せられる言語や音声の表現、行為者の抱く感情や感覚の表現、性器の状態等についての露骨、詳細な描写または記述の如きものがこれにあたるといえるであろう」(原判決書一三頁)となし、本件訳書の猥褻性を判断するにあたつても、「検察官指摘の一四個所の性的描写について逐一検討すると、これらは、いずれも同性または異性相互の間で行なわれる淫蕩にして放埓な性的場面の描写であつて、性的行為の姿態、方法、行為者の会話、その受ける感覚の記述を交えて、相当、露骨かつ具体的に描かれている(原判決書二七、二八頁)」ことを認め、また、「性器および性行為の用語を使用し、行為者の会話や受ける感覚を交え、具体的な人間の行為として描写されており……社会一般人の性的羞恥感情を傷つけるに足りる程度の具体性と詳細さをもつて描かれているというべきである。(原判決書二八、二九頁)」、「本件訳書中に登場するあらゆる人物は、すべて淫蕩な場面の展開に必要な役割を与えられており、これらの人物のさまざまな組み合せによつて、明らかに現代の性的道義観念に反する異常性行為のあらゆる形態を赤裸々に読者に提示し、本件訳書全体を淫蕩な作品たらしめていることは否定し難いところである。(原判決書二九、三〇頁)」と認めているのである。そして、本書の性的場面の描写記述がかように露骨、詳細、具体的になされていると認定する以上、それは、単に普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するに過ぎないものというべきではなく、徒らに性欲を興奮または刺戟せしめるものであるとの結論に到達しなければならなかつたはずである。それにもかかわらず、原判決が本書が性欲を徒らに刺戟または興奮せしめるものとは解されないとしたのは、前掲第一及び第二の一において述べた諸点を論外に置くとしても、なお、次に述べる諸点においてその判断を誤つたためであるといわなければならない。

(一) 原判決は、まず、「本件訳書は、一般的にその内容が空想的、非現実的であり、その表現が無味乾燥であつて読者の情緒や官能に訴える要素が乏しい(原判決書三〇頁)」としている。しかしながら、本件訳書の内容が、原著の作者サドの奔放な空想で描かれたものであつて、本書に描写記述された性的行為の態様が一対一の男女間のみにおいて本来の性器によつて行なわれるべき正常の形態でないものが多いとか、本書の乱交が時間的にも回数的にも通常行ないえないものであるとか、登場人物の身分、地位、職業、性格などが現在の社会のそれとかけ離れているとかいうことは、性的刺戟の存否を決定する基準にはなりえない。また、本書の各所に描かれている性的行為のうちには、その全部または一部が現実の人間において実行可能のものがあることも明らかである。そして、原判決も認めるように、本件訳書は、その登場人物がすべて淫蕩な場面の展開に必要な役割を与えられており、その性的場面の描写は、行為者の会話やその受ける感覚の表現を交え、具体的な人間の行為として描写されており、かつ、露骨にして詳細、具体的でありしかも時と場所の変遷に伴つて繰り返し描かれているのであるから、それは性的場面の描写として十分現実的になされているものといわなければならない。この点客観的に記述されている科学書と異り、感覚や感情に訴える要素が強いことは明らかである。また、原判決は、本書の表現が無味乾燥であつて読者の情緒や官能に訴える要素が乏しいと述べているけれども、本書の性的行為は、其体的な人間の行為として現実的に露骨、詳細、具体的に描写記述されているものであつて、このことは起訴状指摘の十四個所の記載内容自体によつて明らかであり、なお、付言すれば、起訴状記載(一)中の「生涯にこれ程の快楽を味わつた例しはないつもりです」、「彼女たちの愛撫を受けているあたしは、最も甘美な淫楽の極致に身を浸らせつつあるのではないかと思いました」、「こうして陶酔の一時間を過しますと……」、同(二)中の「これ程の激烈な快楽にあえて身を委ねるときにはその快楽をして十分な発露あらしめるべきよ」、「永い快楽生活のおかけで……」、同(三)中の「獣のやさしい愛撫」、「きつと堪能させてもらえる」、同(四)中の「こいつは素晴らしい」、「我を忘れている様子」、「苦痛と逸楽の交つた奇妙な圧迫感」、「あたしを快楽に向わせ……」、同(五)中の「この淫欲の激斗にあたしたちは耐え切れませんでした」、「彼の法悦を告げ知らせ、同時に私の法悦をも誘うのでした」、「二人とも快楽に呻きながら」、「何という素晴らしい快楽でしよう」、同(六)中の「この見事な一物からおれが頂戴するのは快楽という宝物だ」、「誰がみても美しい彼女の尻は、さかんな讃辞を受けました」、同(七)中の「えもいわず気分を高められたので……」、「今あたしがあなたのためにしてあげた、いろいろな心遣いや楽しいことを……」、「こうしておれ達三人は快楽の海を泳ぎまわつた」、同(八)中の「おれ達はせいぜい快楽の海を泳ぎまわろうではないか」、「その享楽に悩ましさと洗練された心遣いとを示した……」、「熱狂と有頂天とを惜しみなく示した」、「今まで味わつたすべての快楽を一瞬にして忘れるほどであつた」、同(九)中の「あらゆる楽しい淫蕩行為を行なつた」、そのすぐ後に続く「何てあなたは想像力を楽しく掻き立てる術に通じていらつしやるんでしよう」、同(十)中の「苦痛と快楽の溜息がここで聞かれる唯一の物音でありました。そのうち一きは力強い完頂の叫び声が聞えました」、「ざつとこんなことをやつてあたしたちは楽しんでいた……」、同(十一)中の「まだ色香は少しも失われてはいず、よく手入れの行き届いた美しい姿態を誇つておりました」、「快楽の時にはひどく嬉しがる性質でした」、「何と淫奔で、何と肉体の喜びに熟練しているのでしよう」、「あたしたちは一ばん楽しい気持にさせる趣味」、そのすぐ後に続く、「あたしたちは彼女を実に上手に満足させてやりましたから彼女は快楽のあまり絶えなんばかりでした」等、行為者の性行為により受ける感覚が表現されており、性行為が人間の快楽であるとされ、官能的享楽の状況が描写記述されているのであつて、原判決のいうようにその表現が無味乾燥であつて読者の情緒や官能に訴える要素が乏しいということはできないのである。

(二) つぎに、原判決は、「本件訳書は、検察官指摘の性的場面のうち、一部には春本類似の描写によつて性的刺戟を与える箇所もないではないが、これらは、いずれも殺人、鞭打、火あぶり、集団殺戮など極度に残忍醜悪な場面の描写が性的場面の描写と不可分的に一体をなすか、あるいは性的描写の前後に接続し、このため、一般読者に極めて不快な刺戟を与え性的刺戟の如きは、この不快感の前には全く消失させられるか、殆んど萎縮させられる性質のものと認められる。(原判決書三〇、三一頁)」と述べ、性的刺戟性に残忍醜悪性が結合することによつて性的刺戟性が消失或いは極度に減殺されているとしている。

しかしながら、

(1)  性的刺戟と残忍醜悪性とが人に与える刺戟は、それぞれ独立性をもつて並列的に存在しうるものであつて、一つの作品中に両者が存在すればこれが中和し相殺されて一方が完全に消失するとか殆んど減殺されてしまうとかいう性質のものではないと考える。残忍醜悪な場面の描写と性的場面の描写とが位置を異にしているときは、読み進むに従いその受ける刺戟も異るのが通常であるのみならず、性的描写と残忍醜悪な描写とが不可分的に一体をなしている場面においても、読者はその残忍醜悪な面に不快感を抱きながらも、性的描写の部分から性的刺戟、興奮を感ずるということも通常ありうるものと考えられるのである。殊に、性欲は、人間の最も強い本能であるから、これに対する刺戟が残忍醜悪性による不快感によつて消失しあるいは極度に減殺されるということは到底考えられないところである。いわゆるエログロという言葉はエロとグロとが並列的に存在することを示し、猥褻性の問題としてはそのエロの点が問擬されなければならないのである。残忍や乱倫自体は、もちろん猥褻ではないが、残忍もしくは乱倫プラス猥褻を猥褻でないとすることはできないのである。相手方等に苦痛ないし残酷な仕打を加え、またはこれを加えられることによつてより強い性的快楽を享受するという異常性行為の情景を描写記述し、その性的快楽の面を強調するということは、いわゆる春本においても往々用いられる手法であつて、この方法によつては一般読者が性欲を刺戟されないということは考えられないところである。

(2)  前記大法廷判決が猥褻文書の定義をなすにあたり正当として是認している、昭和二十六年五月十日第一小法廷判決は、「その夜我欲情す」と題し死女を姦淫する光景を、また、「変態女の秘戯」と題し変態女の性交をそれぞれ詳述した記事に対し、弁護人の「その夜我欲情す」についての、本件記事は所謂「屍姦」の述懐記事であつてエロチツクというより寧ろグロテスクな非現実的な記述で艶恋春情の情感を催さずにあらずして却つて奇怪恐怖の念を抱かせるものである。成程文面中の或る一節(中略)との記述は単に「死体と敢て性交した」のを稍々誇張して記述した迄で具体的に性交の有様を述べたものでもなく斯かることは容易に有り得ない不自然ささえ窺われてワイセツなりといい難く、(中略)の記述等は男女性交の露骨な描写と見るよう変態性欲のグロテスクな生物学的描写であつて現代の常識、常態人間には考え得ない事象で艶恋情感、催春情感を刺戟するワイセツでは無く「怪談」的戦慄をさえ感ずる記事で勿論好ましくない嫌悪する読物であるがワイセツ文書として取扱うには未だ其段階に達せない幼稚未熟のものである。「変態女の秘戯」についての、婦人の変態性欲者の性交技巧をさまできわどい程度には記述していない問答式記である。単に婦人が其の恋愛関係にある男子に対する性交情感を想像仮定して可成りきわどい写生はしてあるが具さに検討すると具体的な描写には未だなつていない。例えば(中略)の一節は変態性欲者の感情のあり方を通常吾々が探偵小説等で見読する如く記述したのでワイセツと論じ難い。(中略)の句節は男女性交前後の情感を描写したものであつて思い切つた書方をしてあるかの如きも変態性欲女の変態を殊更に誇張してある部分が性交状況の具体的叙述とは解し難い。勿論卑俗低調極まる言句には相違はないが房事中の秘戯を具体的に叙情した記事でもなくワイセツと見なされる要点は書き落してあるワイセツに一歩手前の文言の男女間の交換に終つている故処罰の対象たるものではない。との各上告論告を排斥し、その記事はいずれも徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反するものと認められる。として猥褻文書に該当する旨判示している(最高裁判所判例集五巻六号一〇二七頁以下)のであつて、同判決は直接的には性的行為の描写が露骨具体的であることを認定しているものであることはもちろんであるが、同時に奇怪恐怖の要素或いは変態性欲の要素などいわゆるグロテスクな要素をもつ文書についても、性的行為の描写が露骨具体的である限り、これが徒らに性欲を刺戟興奮せしめるものであつて、猥褻文書に該当するものであることを当然のこととしているのである。また、昭和二十七年四月一日第三小法廷判決(最高裁判所判例集四巻六号五七三頁以下)も、アトリエ騒動、閨房殺人事件なる題下に変態男女の痴態、あるいは交接をことさらに暗示する記述や裸婦の両手を縛し背後から強姦しようとする場面を描写した記述、挿画を掲載した部分のある雑誌につき、これを猥褻文書であると判断している。

(3)  ところで、本件訳書について検討すると、検察官指摘の四箇所の性的場面の記載のうち、相手方や関係者を殺害するという悽惨な場面を含むのは、(十)と(十四)の二箇所に過ぎない。(一)ないし(三)、(五)、(八)、(九)の箇所は、残虐性はもちろん相手方に苦痛を加えるとの記述も全く含んでおらず、残余の(四)、(六)、(七)、(十一)ないし(十三)の場面は、殴打、鞭打ち、噛みつき等により相手方に苦痛を加えまたは相手方からこれを加えられつつ性行為を行なう場面を含むけれども、それは苦痛を強調しているのではなく、かような行為によつてより強い性的快楽を享受することを表現し、性的快楽の面を強調していることは明らかであつて、これらの箇所の記載が性的刺戟性をもつことはいうまでもないところであり、その性的刺戟性が残忍醜悪性による不快感により減殺されていないことは明らかである。のみならず、相手方や関係者を殺害する場面を含む(十)と(十四)の二箇所についても、それは他人にかような残虐行為を加えることによつて自己の性的快楽が一層強度に享受されるとしてその官能的享楽を強調して表現しているものであつて、性行為の描写が露骨、詳細かつ具体的になされており、この性的刺戟性が残忍醜悪性と並存しているのであつて、前者が後者による不快感と相殺され消失ないし極度に減殺されているという程度に至つているとは到底考えられないところである。

(4)  ところで、原判決は、「作品が『徒らに性欲を興奮または刺戟せしめる』ものにあたるかどうかの判断は、事実認定の問題ではなく、裁判所が社会通念に従つてなすところの法的価値判断の問題であるけれども、」と述べて、一応前記大法廷判決の立場に従うかのごとく述べながら、続いて「作品の持つ性的刺戟の程度、存否については、これを審理に顕われた証拠によつて検討することは、無益でないばかりか、裁判所に、正常な社会人の良識という立場に立つ社会通念によつて客観的に判断すべきことが要求されるものである以上、無視しえないところと考える。」(判決省三三頁)と述べ、作品のもつ性的刺戟の程度、存否の判断については読者等の証人の証言を無視しえないとして猥褻性の法的価値判断が右証言に拘束されるかのごとく述べ、矛盾した説示をしている。読者等の証人の証言は猥褻性の存否自体の判断の資料とするべきものではなく、当該猥褻文書の社会に及ぼす弊害の程度、他の価値の存否その他情状に関するものに過ぎないのである。続いて原判決は「よつて、審理に顕われた証言によつて本件訳書の読後感を検討する」と述べて各証人の証言を引用しているが、性的刺戟等猥褻性の存否を読後感を基準として決定することが誤りであることは前述したところであるのみならず、仮りにこの点を論外におくとしても、原判決の証言の引用は、証人の証言中判決の立論に合致する部分を一方的に抽出援用したものであつて、証言内容を正当に理解したものとはいい難い。

(イ) まず、家庭の主婦であり、婦人団体役員、東京都社会教育委員、同都青少年問題協議会委員、新聞即売スタンド倫理審議委員である証人田崎敏子(六十二年)は、なるほど、弁護人の「この作品をお読みになりまして、証人自身、失礼な話ですが、ここに書いてあるようなことをやつてみたいとか、あるいは非常に性的興奮を感じられたとかいうことはございますか」との問に対し、そうでございますね、私はむしろそのことよりも非常に陰惨な気持にとらわれて、あと味の悪い、いやな、もう二度と読みたくないと思いました(記録三五七丁)。と答え、更に、弁護人の「そういうことよりもむしろというのはどういうことですか」との問に対し、別に性的興奮とかそういつたことは大して私は感じませんでしたけれども、むしろああいうことは何といいますか、架空的な空想されたような部分もあつたりして、いかにも醜悪な場面を、これでもかこれでもかと重ねて繰り広げている、ああいうあくどさに対して嫌悪を感じたのでございます(同三七一丁)。と答えている。しかしながら、六十二才の、しかも社会的地位もある婦人が、本件のごとくしばしば新聞や週刊誌で取り上げられてその証言が社会的に注目されている公開の法廷において、「あなた自身が性的興奮を感じられたか」と問われれば、その答弁が消極的になり易いことは当然であつて、現に同証人は本書の一般読者に及ぼす影響の関係においては、検察官の「証人はこの本が一般に世の中に公刊されるということについてはどうお考えですか」との問に対し、私はこれを読ませていただきまして、大変仕事の関係上いろいろ今までも露骨なエログロ的なものも読んだのでございますけれども、この「悪徳の栄え」はもつともそのひどいものであるということを非常に感じとつたわけでございます。何といいますか、露骨であるばかりでなく、非常に記述が克明で詳細にわたつておりますし、そしてしかもその一つ一つが大変残虐をきわめたもの、酸鼻なもの、それから醜悪なものというふうに感じとつたわけでございます。ことにその底に流れている思想がよくない(同三三七丁)と答え、家庭の子女に対する関係を問われて、私どもの婦人団体の立場からいいましても、家庭内には特にこういう悪い本は置いておきたくない。従つて私はこの本を拝借して読みますのにも、子供のいないとき見えないときを選んで読んだような次第です(同三四一丁)と答え、本書が読者に性的な刺戟とか興奮を与えるかどうかの点については、やはり青少年の場合、十五、六から二十前後までの年令層は特に頭が固つておりませんから、このようなのを読みました場合に非常に刺戟を強く受けると思います(同三四二丁)と答え、本書が性器等に江戸文学の用語を使用した箇所もあることにつき、前後を読んでおりますとやはりそれは自然に察知できるものでございますし、むしろそういう用語は隠れ言葉というのでございますか、かえつてそういうことは青少年の興味をそそるようなことになり……好奇心と探究心によつて、もつとさらつと通れるものも深く読みこなし、なおそこから受ける刺戟というものはひどいのではないかと考えた次第でございます(同三四二、三四三丁)と答え、弁護人から、「本書を全体として読んだ感じと問題の部分を読んだ感じとで違いがあつたか」と問われ、全体としては一貫したそういう思想みたいなものを感じておりましたし、それから部分的には非常にこう、遍歴の一つのところへいくたびに何か説明があるわけですね、思想的な。それからあとが露骨ないろいろな行為が詳しく書いてあるわけなんですが、やはりいろいろ露骨に行為そのものが詳しく書いてある部分が私はいけないと、特に青少年には少し刺戟が強すぎると、こう思つたわけでございます(同三六八、三六九丁)と答え、思想的な面との関係につき、私はそういうことをむしろ強くは感じないでああいう残虐行為とか猥褻行為というものが、やつぱり非常に強くぴんと大きく目の中に入つてきたと思います(同三七九丁)と述べ、芸術的な裸婦の絵画との関係につき、サドに書かれているようなあれは芸術上のどうこうということよりも、やつぱり具体的にあんなふうに書かれたということは私は困ると思う(同三八一、三八二丁)と答え、さらに弁護人の「そうすると中の、性に関してサドが考えていることと、ほかの貴族社会などについて考えていることと、サドが同格に扱つてこの本を書いているというふうにお考えになるより、むしろ性の方を強調して書いている、その方が読者は強く印象ずけられるというふうにお考えになつているのですか」との問に対し、そうでございますね(同三八二丁)と肯定しているのである。すなわち、同証人は本書に表現されているサドの思想が悪いとし、またその残忍醜悪さに対して強い嫌悪を感じたことを述べているが、同時に本書の性的行為の場面の描写が露骨、詳細であること、本書の性的刺戟が青少年に非常に強いことを強調するとともに、同証人自身の印象として残虐行為と猥褻行為とが強く感じられたことを証言していることは明らかであつて、同証人の証言からして残忍醜悪性による不快感により性的刺戟性が消失ないし殆んど減殺されているとの趣旨を導き出すことはできないのである。

(ロ) つぎに、東京都立大森高等学校長である証人清水貞助(五十三年)も、なるほど、弁護人の「証人自身こういう本をお読みになつて、例えば同じようなことをしてやろうとか、あるいは性的興奮を感じられたなどということがありますか」との問に対し、私自身は非常に嫌悪の念をもよおしましたと答え、弁護人の「そうすると性的嫌悪の念もいろいろあると思いますが、性的に非常に刺戟を受けて興奮されるとかいうようなことはあつたのですか」との問に対し、ある一種の興奮というべきものだと思いますと答え、続いて弁護人の「それは嫌悪に基づく興奮ですか」との問に対し、そう思います(同四〇七、四〇八丁)と答えているが、証人自身が同書に書かれていると同じようなことをしてやろうと思つたかとか、性的興奮を感じられたかと問われれば、その答えが消極的になり易いことは田崎証人について述べたと同様、人情の自然であつて、このことは右問答の状況自体によつても明らかである。同証人は右の問に対し、嫌悪の念を催したと述べて、性的刺戟を受けたか否かについて明確な答弁を避け、かつ、残虐性に基づく嫌悪の念が強いことをるる述べているのであるが、その嫌悪の念が残虐性に基づく嫌悪感のみでなく、性的羞恥心を害される場合当然同時に随伴して生ずる嫌悪の情(前掲東京高裁昭二七、一二、一〇判決、高等裁判所判例集五巻一三号二四四五頁、二四四六頁)をも感じたものであることは、「その嫌悪感というのは、いわゆる残虐性ということのほかに性的にいやらしいという感じももつた」旨(記録四三七丁)の証言により明らかである。のみならず同証人はその証言中において、検察官から同証人が本書の公刊に反対する理由を問われ、性交及び性器に関する非常に具体的に描写をたびたび繰り返えしておること、及び非常に残虐な場面がたびたび出ておることから、……これが情緒非常に不安定な、性的にもいろいろ悩の多い高校生あたりにとつては、特に重大な悪影響があるものと思う(同三九六、三九七丁)旨答え、本書の性的刺戟の面、あるいは羞恥心を害する面の有無、影響を問われ、高校教育者であることから高校生に対する影響を論じ、ことに高校生の場合について申しますと、非常に性的にも完成の域に近くなつておりまして性的な悩みをもつておる子が非常に多いと思います。そういう場合に、ああいう露骨な描写を見ますとそれにますます刺戟をされる。……しまいにはそれを模倣してみたいというような気特になるのじやないかと思います(同三九七、三九八丁)と述べ、弁護人の「かなりいろいろ長い議論が出てくるのは、読んでいて退屈されませんでしたか」との問に対し、同じことですから、同じようなことと申しますと、ちよつと語弊があるかも知れませんが、またかと思いますから残忍なことやなんか私は退屈しましたと答えて、議論の部分や残忍な部分等が読んでいて退屈であつた旨述べ、さらに弁護人から「正編を合わせて読まなければこの本の中でサドという作家が何を表現しようとしているかわからないのではないかというような疑念を持ちませんでしたか」と問われて、とにかく先ほど申しましたように、非常に猥褻なことと残虐なことを書いてあるというだけを感じて、そこまでは詮索してみませんでした(同四二四丁)と答え、さらに弁護人に対する答弁中において、あのような性というものを快楽か何かの手段方便にしている……(同四三〇丁)とか、私はそういう考え方とか何とかいうよりも、先ほどお話しましたように、猥褻と残虐という点を問題にしておりますので、その考え方そのものをああいう形式でなく述べておるならばまた別問題になると思います。生徒に読ませたいか読ませたくないかということは、ただあういうふうに克明にああいう場面を描写しておるという点と、それから非常に残虐な場面が克明に描写してあるという点で読ませたくないというわけである(同四三二丁)旨述べているのであつて、本書の性的場面の描写が露骨、克明になされていること、性を快楽として扱つていると感じたこと、残虐な場面の印象のみならず、猥褻な場面の印象も強かつたことを証言していることは明らかである。

(ハ) 私立桐朋女子学園校長である証人生江義男(四十四年)の証言について考察すると、同証人は、検察官から「教育者としての立場からみて、本書が一般に公刊されることについてどう考えるか」と問われたのに対し、本書は一般青少年に対して教育的でないと思うと答え、その理由を問われたのに対し、われわれ教育者というのはやはり子供達の生命の尊重ということがどんな場合でも第一番だと思います。あの本は自分の快楽のために非常に他人を殺している。非常にあつさりやつている。私は生命の尊重感がないという点が一番教育的に問題であると感じたと述べ、さらに検察官の、本書の性的描写の性的道義観に対する関係をどう考えるかとの問に対し、これはわれわれが受けた印象について申し上げたいと思うのですが、私は猥褻という言葉でいうのはどうかと思います。これは二つに分けて、一般の春本のようなものとは違うと思います。ただ心理的に非常に強く訴えるものが、私はエロというよりもグロ的なものであつて非常に具体的に繰り返し的な表現で、これでもかこれでもかというふうにやつておる。そういう点が私自身としてはオーバーであつて、心理的な面で非常に強く影響を与えるのじやないかとそういうふうに感じます。と述べ、「心理的な面で強く影響を与えるのじやないかというのは、どういう人達に対してという意味ですか」との問に対し、これは本当にフランス文学の流れているものをくんだ人なら、いろいろその点については文学的にみるだろうと私は思いますけれどもそういう素地のないものがあれを見た場合には、青少年のみならず一般的にもその点は感ずるのではないかと思いますと述べ、さらに、心理的な面での影響ということの意味を問われ、たとえばあの中で再三再四繰り返えされておりますいろいろな性行為でございますね、ああいうふうなものは、少くとも日本人的なもの、いわゆる感覚的なものじやないんじやないかと、非常にそういう異質的な感じを受けました。そういう点を心理的な影響というふうに申し上げるわけですが、と答え、続いて「フランス文学に対する知識とか作者に対する知識等をもたない人に対し、どういう影響を与えると考えるか」との問に対し、少くともあれは芸術的なものだとは私も思います。しかしあれはやはりキリスト教の世界にある人が読むのと、そうじやないわれわれ日本人が読むのとでは、私は受取り方、感じ方が非常に違い、ただ単なる性行為というところにひかれてしまうおそれが十分あると、こういうふうに感じます。と述べ、「あの本を今言われたような人達が読む場合に、証人のお考えとしては、性欲を刺戟させるとか興奮させるとかいうふうなこともあるとお考えですか」との問に対しそれはあると思いますと答え、「さらにあの本によつて羞恥心というようなものを感じますか」との問に対し、まあこれは青少年にこれを見せたいというふうな気持にはなりませんです。それだけわれわれもあの本を読んでそういうふうな感じ方もあるといつてよいだろうと思いますと答え(記録四四六-四四九丁)、次に性教育の面からみた本書の影響を問われ、非常に不健全なもので影響するところが大きいと思う旨答え、家庭の子女に対しては、私も年ごろの娘をもつておりますが読ませたいとは思わない。と述べ(同四五〇、四五一丁)、次いで本書が性器等に江戸文学の用語を使つている箇所もある点につき、私は江戸文学をやつているから分る。一般的にはその点わかりにくいのじやないかと思うが、性行為のことが書いてあるということは想像的に考えるからわかると思う。そういう用語を使つていることによつて性欲を刺戟興奮させる度合が違うかどうかについては、ちよつとどういうふうにお答えしていいかわからないが、しかし、一応は性欲的な衝動も受けると思う旨述べている(同四五一-四五三丁)。そして弁護人の反対尋問において、本書が春本とは違うということの理由を聞かれ、これがいわゆる時代的な考え方、そういうことは多少歴史でわかつていますが、そういうものを、ただ春本のようなくすぐり的な感覚的なものとは違う、そういう意味で猥褻という点では二つの意味をはつきりしないと、その辺が違うのじやないかというふうな感じです。と答え(同四五七、四五八丁)、「キリスト教的なものがないところで読むと性的な場面が十分理解できないのじやないかといわれたのはどういう意味なんでございますか」との問に対し、それはちよつと違うと思います。私の申し上げたのは性的な場面とか何とかいうのは、その受取り方でどんなふうにでも受取れると思うのです。それを本当にどういうふうに言つているのかという、つき詰めたところまでやつぱり考えなければ、この本は読まれても非常に悪影響があると、こういう意味なんです。と答え(同四五九丁)で、性的場面においてサドがいかなる思想を表現しようとしているかをつき詰めて考えなければ悪影響が非常に強いことを強調し、「本書の性描写が日本人的でなくて非常に異質的なものと述べたがその日本人的なものというのはどんなものですか」との問に対し、さあ、大抵はこれにも書いてありますね、バニナでなくて別の方ですね、アナス、そういうふうなことの方が本当のあれだなということは、これはちよつとわれわれの経験からみましても変じやないかなという感じです、そういう意味ですと述べ(同四六三丁)、さらに、弁護人の「はなはだ失礼なんですけれども、証人自身が卒直にいつて、どこかの一部分でも読んでみて、性的興奮を感じられましたか」と問われ、そうでございますね、感じたと申し上げた方がいいと思いますと答え(同四六七丁)、「一般の読者、サドに関心をもつている人達に、かなりの素地を与えておつてこれを読むということになれば、思想的に理解がいくだろうというふうにお考えですか」と問われたのに対し、研究室で文学を本当に研究される方がこれをお読みになることについては私は差支えないと思うし、研究されることはいいことだと思うのです。私はただそういう素地のない一般のものがこれを読んだ場合の影響がよくないと思つていますと述べている(同四六八丁)。以上の証言によれば、なるほど、同証人はエロ或いは猥褻な本とは春本のようなくすぐり的な感覚的ないわゆるくだらない本に限るとする独自の見解を採つているため、その見地からすれば、本書は時代的な内容をもつしグロ的な要素が強く、性行為も日本人的な感覚的なものではないのではないか、例えばバニナでなくてアナスというようなことが変ではないかというような異質的な感じを受けたから春本とは違うと思う旨証言しているのであるが、証人の前提とする猥褻文書を春本に限るとする見解が理由のないものであることはいうまでもないところであり、また同証人も本書がグロ的といつているが性欲刺戟性が消失ないし極めて減殺されていると証言しているものではないことは、前記証言、殊に本書の性的描写が非常に具体的に繰り返し的な表現でなされている、われわれ日本人が読む場合にはキリスト教の世界にある人が読むのと違い、ただ単なる性行為というところにひかれてしまうおそれが十分あるし、性欲を刺戟興奮させると思う、本書を読んでわれわれも羞恥心を感ずる、本書中に江戸文学の用語が使われていても、読者は性欲的な衝動を受けると思う、証人自身も性的興奮を感じた、青少年のみならず素地のない一般のものが読んだ場合の影響がよくない、等の証言によつて明らかである。

(ニ) 保護司のほか各種団体の役員である証人橋本政東(五十三年)は、なるほど、検察官から本書の一般公刊に反対する理由を問われた際、本書を通読して全巻を通じて私どもが過去において学んできた徳性、倫理、人間の生活に全然合わないという感じを抱いたからである。と述べ(記録五三五、五三六丁)で、本書の性的行為の反道徳性、反風俗性を強調し、次いで本書が性欲を刺戟興奮させるか否かの点を問われ、性欲を刺戟することもあるいはあると思いますが、私はむしろ非常に嫌悪を感じました。いやらしいという感じです。と答え、さらに「そのいやらしいというのは性的な羞恥心を害するということですか」との問に対し、そうです。むしろ正常な性生活を営むものにとつては性生活の破壊のような感じを抱きました。と答えている(同五三七丁)。しかしながら、証人自身が性的に刺戟されたとか興奮したとかという点についての証言が消極的になり易いことは、田崎証人の場合について述べたと同様であり、また、右の証言中においても、一般的な関係においては本書が「性欲を刺戟することもあるいはあると思います」と述べているのであつてこれを否定しているのではなく、ただ本書の反道徳性をより強調したに過ぎないものと認めるべきであり、さらに同証人は非常に嫌悪を感じ、いやらしいという感じを抱いたというが、それが反道徳性による嫌悪感のみでなく、本書の性的描写の露骨、具体性により性的羞恥心を害されたことにより当然同時に随伴して生ずる嫌悪の情をも感じたものであることは、その嫌悪感を「いやらしいという感じ」と表現していて「けしからん」という表現をしておらず、、性的羞恥心を害するものであることを肯定していること、「とても子供(大学二年生)の前でも読めませんし、また人の前であの本をひろげることさえも私は恥ずかしいと思つたくらいです(同五三八丁)」、「本書の中に江戸文学の用語を使つた箇所もあるが、そこに書かれていることが性器であり、性行為であるということは完全にわかります。あれは性行為でないと思つて読む人はおそらくいないと思います(同五三九丁)」、「全巻を通じて正常でない性行為が書かれているという感じを未だにもつている(同五七〇丁)」、「さつきもちよつと申し上げましたようにどんなたくみな言葉ずかいできれいな文章で書いてあつても、性行為は人の前で堂堂とやることではございませんし、そういうものはやはり猥褻的な文章ということはいいうると思うのです。文学的価値がいかに高くても猥本は猥本という見方が私にはとれるのです(同五七一丁)」等の証言により明らかである。

(ホ) つぎに、原判決は、「その他の多くの証人もほぼ異口同音に、本件訳書の殺人などの場面は、あまり残虐なので驚いたが、性的場面の描写からは、とくに刺戟を受けるようなことはなかつた趣旨の供述をしているのである。(原判決書三五頁)」と述べているので、その他の証人の証言等について検討する。弁護士(元判事、家庭局課長)、東洋大学社会学部教授である証人内藤文質(五十四年)は、本書が性欲を刺戟興奮させるかという点を問われて、やはり私どもも正直な話、あれを拝見してみるとなかなか興味があるわけなんでたしかに見たいなと思うし、見て面白かつたなと思うことが多々あります。私のようなむしろ壮年期をすぎた人間といたしましてはあまり感じないと思うのでございますけれども、しかし青少年の感受性なり被影響性あるいは現在の思春期にある青少年といたしましてはかなり強い刺戟を受ける可能性はあるんじやないかと思うのでございますと述べ(記録四八九、四九〇丁)、また、本書中に、性器に江戸文学の用語を用いたところもあるが、それが性器であること、性的行為が行なわれているということは位置やほかの文章を読んでみるとわかると思う。或いは青少年に的確にはわからないことがありましようが、それがかえつて変な想像をして大きな影響を及ぼすことが考えられないこともない(同四九一、四九二丁)と述べ、さらに、私が先程一番最初に興味があると申し上げたその興味というのは、私が非常に原始的な欲望をもつている人間としての興味ですね、そういうものもかなり問題の箇所から私自身が感じたということです。と述べているのであつて、本書の性的刺戟興奮性を肯定しているものと認められる。さらに、木々高太郎(作家、医博)も、東京新聞(昭和三六、三、三夕刊、弁一五号)に、アルフオンス・ド・サドの小説はいくつもあるが、いずれもワイセツであり論文的である。それが極まれりというのが、二つの大作、「ジユステイーヌ」(善行は不幸のもと)と「ジユリエツト」(悪行は栄える)とである。私は十年ほどにもなるか、三田文学の編集に関係していた時に、この二つの作品を飜訳してみたいと考えて、その最初の十数ページに手をつけてみた。然し、これはとうてい日本語に訳して、そのまま日の目をみるわけにはゆかぬ作品で一ページのうちにいくつか男根と女陰という字が出てくる。言わば、男根と女陰とをコマとして将棋をさすようなもので、ただそれだけでもワイセツの、もし罪があれば、それに触れるであろう。……あれを、そのまま訳すると、もちろんどこの国の法律でも、取締るのは当然である。との見解を発表されている。なお、弁護側証人のうち、有坂重満(六十七年)は、弁護人から、「本書の性的描写部分が一般読者に対し必要以上に性的興奮をよび起すと感じたか」と問われ、「サドが自分の訴えようとすることを書いたものだから刺戟が瞬間的だ」といいながらも「はたからみれば非常に刺戟が強いといつても……」と述べ、続いて弁護人の「性的な表現や描写から性的行為に出るよう刺戟を受けるか」との問に対し、「刺戟が瞬間的でそのあとにはすぐ、作者の意図を知りたくなるという意識の方が強いので感覚的に悩ましかつたという境地にはかえつてなれないと思う」といいながらも「もちろん文学作品でもあるから、それから受ける刺戟はたしかにあることはある(記録一五四五-一五四九丁)」と答えたり、「ああいうまともに強いシヨツク……(同一五四二丁)」などと述べていて本書の性的描写部分が性的刺戟性をもつことは否定しておらず、同松沢久美子(お茶の水女子大、文教育学部史学科四年生(二十三年)も、「情緒的な刺戟は感じなかつたようです(同一四四九丁)」といいながらも、本書を読む際「ボーイフレンドが一緒にいるのだつたら恥ずかしいだろうと思います(同一四五〇丁)」とか、「残酷なことをするから驚いたというよりも、たとえば同性愛なんかのことについて現実にはどういうものか全然知らないことが出されたのでシヨツタだつた(同一四五九、一四六〇丁)」と述べている。その他の弁護側証人は、いずれも、本書が性的刺戟性をもつこと、並びに性的羞恥心を害することを肯定していないが、作家あるいは評論家の証人は作品をその専門的、学問的知識をもつて読むのであるから、同人等に対する影響を基準にしてこれを決すべきでないことは当然であり、それ以外の弁護側証人も文学に知識や興味をもつ人達であつて、一般社会人が同証人等と同様な能力、態度をもつて本書を読みうるものとは考えられず、しかも同証人等はいずれも被告人石井の出版社に宛て本書挿入の読書カードの回答を送つた人達の中から選ばれた証人であり、その読書カードは、回収数僅か四〇通(押収部数は合計四一九部であつてその殆んどが書店から押収したものであるから、一応一、五〇〇部が一般読者に販売されたものとみるとき、回収率は二・六パーセント)に過ぎず、しかも右四〇通のうち本書の感想意見を述べているもの二八通に過ぎないのであるから、その中から選ばれた右証人等の証言は、他の大部分の本書購読者の意見はもちろん、社会の一般読者の意見を代表するものではないことを考慮すべきであり、さらに前述したとおり本件の如くしばしば新聞や週刊誌で取り上げられ、その証言が社会的に注目されている公開の法廷において「あなたは性欲を刺戟興奮させられたか」と尋ねられれば世人の共通の弱点としてその答弁が消極的になり易いことは当然のことである点に留意しなければならない。以上述べた理由により、原判決が、「本件訳書の描写は、普通人である一般読者にとつては、殆んど性欲を刺戟興奮させるいとまのないほど、醜悪残忍な情景描写の連続である」とか「こうした描写から一般読者の抱く不快感ないし嫌悪感は、過度の性的刺戟に対して人間がその精神的面すなわち理性から反撥を感ずるところの性的羞恥感や性的嫌悪感ではない。」(原判決書三二頁)と述べ、結論として、「一般社会の普通人は、本件訳書の持つ残虐醜悪な雰囲気に圧倒され、過度な性的刺戟を受けることは殆んどないと認められる(原判決書三六頁)」としているのは、原判決の独断にすぎないものであるといわなければならない。

第三、なお、原判決は、猥褻文書の判断基準につき、(一)判例にいう「徒らに性欲を刺戟、興奮せしめ」の「徒らに」を強度の問題と解しているものと思料され、また、(二)性的刺戟性の判定にあたりその対象から青少年を除外して考察すべきものと解しているものと思料されるのであるが、これらの点は、いずれも猥褻文書の判断基準を誤つたもので、刑法第一七五条の解釈を誤つたものというべきである。

一、原判決は、性的刺戟の判新基準につき、「個々の記載のみでは、たとえ過度の性的刺戟を受けることがありえても、全体的にみて通常の性的刺戟を受けるに止まるか、全くこれを受けることがなければ、猥褻文書としての要件を欠くものといわなければならない。(原判決書一五頁)」と述べ、本書の性的刺戟を判断する際においても、「こうした描写から一般読者の抱く不快感ないし嫌悪感は、過度の性的刺戟に対して人間がその精神的面すなわち理性から反撥を感ずるところの性的羞恥感や性的嫌悪感ではない。(同三二頁)」とか「もとより、本件訳書の以上の如き描写から過度の性的興奮を覚え、またはかかる描写からでなければ殆んど性的興奮を感じない一部の読者が存するであろうことも否定し難いところである。しかし……。一般社会の普通人は、本件訳書の持つ残虐醜悪な雰囲気に圧倒され過度な性的刺戟を受けることは殆どないと認められる。(同三六頁)」と述べ、性的刺戟を通常と過度とに区別し、猥褻文書の要件としての性的刺戟は通常の程度では足らず過度であることを要するものとしているのであるが、これは前記最高裁判所の判例にいう「徒らに」を強度の意味の「過度」と解しているものと思われる。しかしながら、原判決のいう通常と過度とは何を基準とするのか、不明であるのみならず、そもそも通常と過度とを区別することは性的刺戟の程度すなわち量の問題に過ぎず、性的刺戟の存否すなわち質の問題ではないのである。そして最高裁判所の判例にいう「徒らに」の意味を強度ないし程度の意味に解すべき理由は全く存在しないのである。そもそも、「徒らに」の語を最初に使用した前記昭和二十六年五月十日の第一小法廷判決は、判文上特にその意義を説示することなく、問題の記事を掲載した新聞につき、単に、「その記事はいずれも徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反するものと認められる。(最高裁判所判例集五巻六号一〇二七頁、一〇二八頁)」と判示しているのであり、右判示にいう「徒らに」とは「無用に」という程度の意味、すなわち、かような記事を公表することにより性欲を興奮または刺戟しないでもよいものをあえてしたというだけの意味に過ぎないものと解すべきものであつて、原判決のいうごとく、これを性欲刺戟の程度の意義に解し、「通常の性的刺戟を受けるに止まれば猥褻文書としての要件を欠く」とか、「過度の性的刺戟を受けること」を要するとして、強度の意味における「過度」と解すべきものでないことは明らかである。猥褻文書の要件としての性的刺戟につき「過度」の語を最初に使用したのは、前記チヤタレー事件の第二審判決であるが、同判決は、この点につき、この性的秩序の態様は、時と処を異にするに従い、幾多の相違変遷があつたにもせよ、近代文明社会においては、性行為が男女両性間に無秩序に行わるべからざること、性行為を公然行うべからざること、性的行為についてこれを公然行つたと同一の効果を生ずる虞ある程度に描写又は記述した文書図画を公表すべからざること等をその内容と存するものであることは、否定し得ないところである。……わが国においても、右のような性生活に関する社会的制約が、善良の風俗の一つである性的秩序として侵すべからざるものとして保護されていることは、刑法第百七十四条乃至第百八十二条及び第百八十四条の規定の存することによつて明らかである。されば、一般社会人が、前記の社会的制約を超えた前記のような性器又は性交等の露骨詳細な描写又は記述ある文書図画に接するときは、人間の本能としての性欲は、右描写又は記述が社会的制約を無視したという異常性に影響されて過度に興奮又は刺戟せしめられるものと解すべきであり、最高裁判所の判決にいう[徒らに」とは、その他の説明と相俟つて右社会的制約従つて性的秩序に違反し、過度に性欲を興奮又は刺戟せしめることを意味するものと解すべきである。(前記高等裁判所判例集二四四三、二四四四頁)……。前者(註……大審院大正七年六月十日刑事第二部判決を指す)中には、「徒らに」という文言がないが、この「徒らに」とは「過度に」という意味であることは、前記説明のとおりであつて、前者も正常な性欲の刺戟興奮は問題外としていることは明らかであるから、右両判決の各定義は、向一趣旨のものと解し得るのである。(同判例集二四四七頁)と述べ、「過度」を「正常」な性欲刺戟に対する用語として使用しており、同判決の趣旨は、性行為非公然性の原則に反する描写記述のある文書を公表することは社会的制約を無視するものであつて、かような文書が一般読者に与える性的刺戟はすべてこれを「過度」の性的刺戟であるとし、然らざる場合の「正常」な性的刺戟と対比せしめ、前記最高裁判所の判決にいう「徒らに」を右の意義における「過度」と解しているものと解されるが、右最高裁判所の判決にいう「徒らに」の意義は前述したとおり単に「性行為非公然性の原則に反して無用に」という意味に解すべきものであつて、これに「過度」なる語を使用するまでの必要はなく、また、「一般社会人が性行為非公然性なる社会的制約を超えた文書に接するときは、人間の性欲は右文書の描写記述が社会的制約を無視したという異常性に影響されて過度に興奮または刺戟せしめられるもの」とするのは、いささか措辞妥当を欠く憾みがあるものと思われる。しかも、原判決は、前記第二審判決が「過度」になる語を右に述べたごとく「正常な」性欲刺戟に対する意味においていわば質的な意義を有するものとして使用しているのとも異り、これを性的刺戟の程度を示す量的な意義を有するものと解し、猥褻文書の要件としての性的刺戟は「通常」の程度では足らず、「過度」であることを要するものとしているのであつて、原判決のこの見解は全く独自のものに過ぎず、前記最高裁判所判決にいう「徒らに」の解釈を誤つたものといわなければならない。したがつて、原判決が、一般読者は本件訳書から「過度な性的刺戟を受けることは殆んどないと認められるのであつて、この点において、本件訳書は、猥褻文書たるの要件を欠くものといわなければならない」と断じているのは、前記判例にいう「徒らに」の解釈を誤つた結果刑法第一七五条にいわゆる「猥褻文書」の解釈を誤り、ひいて同条の適用を誤つた違法があるものといわなければならない。

二、つぎに、原判決は、「右最高裁判所判決の掲げる要件のうち、第一の『性的羞恥心を害すること』および第三の『善良な性的道義観念に反すること』については、普通人の正常なそれを基準として判断することは判文上明白であるが、第二の『徒らに性欲を刺戟興奮させる』点について。何人のそれを基準として判断すべきかは判文上明確ではない。しかし、刑法第一七五条が一般社会の性秩序ないし健全な性的風俗を保護法益としている点から考えれば、前二者と同じくこれを普通人の正常なそれに求むべきことは疑いないところである(原判決書七頁)」と述べた後で、「それゆえ、一般社会には、ささいな性的刺戟にも敏感な反応を示す年令の低い未成年者や性的に腐敗しやすい傾向のある成人もあれば、反対に道徳的に極端な潔癖な人もあり、また通常の性的刺戟に対しても格別の反応を示さないような人もあることは、いうまでもないが、かかる特殊な人の受ける性的刺戟の程度を基準として判断することはできない(同八頁)」と述べ、また、「本件訳書が、心身の発達の未熟な青少年の手に渡ることは、甚だ寒心にたえないところであつて、当裁判所もまた深く危惧するところであるけれども、多くの文明諸国と異り青少年に悪影響を及ぼすおそれのある性的出版物および不良出版物に対し、何ら特別の立法措置を講ぜられていないわが国の現状では、これまた青少年の健全な育成について責任をもつ社会および個々の成員の良識ある取扱にまつほかはないのである(同三九頁)」と述べており、右判決のいう「ささいな性的刺戟にも敏感な反応を示す年令の低い未成年者」とか「心身の発達の未熟な青少年」の意味は、未成年者とか青少年一般を指すものと解され、原判決はこれらの者の受ける性的刺戟の有無、程度は猥褻性判断の基準になりえないとされているように解される。しかしながら、まず、前記大法廷判決は、「著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、『個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個個人がこれに反する認識をもつことによつて否定されるものではない』(最高裁判所判例集一一巻三号一〇〇五、一〇〇六頁)」として判断の主体的要件を説示したほか、その対象についても「論旨は猥褻文書たるためには未熟な未成年者のみの好奇心に触れるもので、未成年者に恢復しがたい心身の損失を招かしめるものであることを要するものとしている。猥褻文書の普及は未成年者の心身に悪影響を及ぼすから、その禁止は未成年者にとつて極めて重要な意義を有することもちろんである。しかし何が猥褻文書なるかの判定については、一定の読者層に対する影響のみを考えるべきでなく、広く社会一般の読者を対象として考慮に入れるべきである。論旨が読者層を未成年者のみに限局して論じているのは独断であつて採用することができない(同判例集一〇一〇頁)」として、何が猥褻文書かの判定にあたつて対象を未成年者のみに限定して論ずることを排斥しているが、未成年者を除外すべしとしているのではなく、未成年者を含めて広く社会一般の読者を対象として考慮に入れるべきことを説示しているものであることは判文の趣旨からして明らかなところであり、また、この点につき同事件の第二審判決(前記高等裁判所判例集五巻一三号)も、明白に、「一般社会人中には、未成年者、未婚の青少年も含まれるけれども、弁護人主張のように、『専ら自発的判断力の未熟なる未成年者のみの好奇心に触れることを予想し云々』として、未成年者のみを対象としてこの判断をなすべきものでなく、国民各層を広く包括した一般社会人を対象として考察判断すべきである。(同判例集二四四五頁)」と述べているのである。原判決の挙げている「刑法第一七五条が一般社会の性秩序ないし健全な性的風俗を保護法益としている点」を理由として、性的刺戟性判断の対象から未成年者を除外すべしとの結論を導き出すことはできない。未成年者が性的刺戟に敏感であり、これを抑制すべき良識の発達が未熟であればある程、社会の性秩序、性的風俗保護の見地からはこれを重規すべきであるし、また、未成年者は一般社会人の中にあつて次の時代を担うべきものであり、この種文書の弊害は成人に対するよりも未成年者に対する方が大きいものと考えられるからである。国によつては未成年者に対するこの種犯罪の刑を加重している立法例もある筈であるのに、我が刑法には特にその旨の規定がないということは、わが刑法が未成年者を含めた社会一般の読者を対象として考慮すべきことを予定しているからにほかならないと解される。そして前記大法廷判決が「何が猥褻文書なるかの判定については、一定の読者層に対する影響のみを考えるべきでなく広く社会一般の読者を対象として考慮に入れるべきである」としているのは、前述のように文書の猥褻性は当該文書のもつ客観的性質であつてその記載内容自体につき客観的に判断すべきものであつて、読者層いかんにより左右されるものではないとする立場からして当然のことであるといわなければならない。文書の猥褻性の存否は、前述の如く、当該文書自体につきその記載内容が公然性行為を行つたと同一視すべき程度に具体性をもつか否かによつて決定されなければならず、また、それをもつて足りるものといわなければならない。そして、性欲刺戟性の存否の判定にあたり、原判決のごとくその対象から未成年者を除外すを場合と、前記判例のごとく未成年者を含めた社会一般の読者を対象とする場合とでは、その結論を異にするものであることはいうまでもないところである。なお、仮りに、原判決のごとく性欲刺戟の判断の対象から未成年者を除外して考えるのが相当であるとしても、本件訳書が未成年者のみに対して性的刺戟を与え、成人にはこれを与えないものとは到底解されないこと前述のとおりである。

以上を要するに、原判決は、刑法第一七五条の解釈及び適用を誤りその結果被告人両名に無罪の言渡しをしたものであつて、その誤りが判決に影響を及ぼすこと明らかであるので、ここに原判決を破棄しさらに相当の裁判を求めるため、本件控訴に及んだ次第である。

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